児童性的虐待の罪に問われていたマイケル・ジャクソンに対して、無罪評決が下されたのだけれど、このことに関する今日の報道を見ていて、ちょっと引っ掛かったことがふたつあるんだ。
ひとつは、今朝のニュース番組でのこと。
現地の裁判所前から中継していたキャスターのコメントなのだけれど。
「もともと十分な証拠の提示がなく、起訴自体の正当性が疑われた中での判決は、大方の予想通り、全面無罪となりました。」
正直に言って、おれはこのニュースに強い関心がなかったので、これまでの報道の経緯が分からないのだけれど、「起訴自体の正当性が疑われ」ているという指摘は、従来から報道されていたことなのだろうか。「大方の予想」では無罪と考えられていた、という事実も、実はこのコメントで初めて知った。いろいろ調べてみると、どうやら米国の専門家の間では「10の罪状のうち2〜3は有罪では」というのが大方の見方だったようだけれど、そのことも知らなかった。
こういうことって、マイケル・ジャクソンが起訴されてから今日に至るまでの間に、どんなふうに報道されていたのだろう。知っている人がいれば(というか、恥ずかしながらおれはよく知らないので)、是非教えてほしい。
というのは、おれ自身の感覚では、彼が起訴された時点で、既に有罪が確定しているかのような報道のされ方だった印象があったので、このコメントに違和感を感じてしまったんだよね。無罪判決が出た途端に態度が反転したような、そんな感じがして。
過去の報道に対するおれの認識が正しいかどうかがそもそも怪しいので、迂闊なことは言いたくないのだけれど、ちょっとだけ「怖さ」を感じたコメントだった。
もうひとつは、報道ステーションでの古館さんのコメント。
「結局、金を持っている人間が有能な弁護士をつければ、裁判に勝ててしまうんですかね。」
これには、はっきりと違和感を覚えた。この発言は、絶対におかしいと思う。
小室直樹さんの『痛快!憲法学』が教えてくれたことだけれど、弁護士の力を借りて、裁判の場で己の潔白を証明するのは、全国民にあまねく認められた当然の権利だ。どんな状況下にあっても尊重されなければいけない、基本的人権。その人が資産を持っているかどうか、あるいは弁護士にどれだけの対価を払ったか、そんなことによって歪められてはいけないものだと思う。
小室さんの『痛快!憲法学』の中で、すごく印象に残った一節がある。
裁判で裁かれるのは、被告ではありません。行政権力の代理人たる検察官なのです。
裁判官が本当に判断すべきなのは、検察側に落ち度がなかったかどうかだ。検察側の説明に一点の曇りもないか、あるいは立証の手続きに問題がないかどうか、そのことをこそ裁くべきなんだ。基本的に、犯罪の立証責任は検察側にある。その立証のロジックや手続きにおいてひとつでも法律上の問題があったならば、検察側の主張は退けられるべきだ。疑わしきは罰せず、これこそが大原則だと思う。
検察というのは、国家権力を代理するものだ。国家には、凄まじい権力がある。ひとたび権力の暴走を許せば、国民の基本的人権なんて簡単に蹂躙される。警察と軍隊という暴力装置を持っていることだけでも、国家権力の力の恐ろしさは分かるはずだ。そんな怪物たる国家だからこそ、ホッブスは「リヴァイアサン」と表現した訳だよね。
だからこそ、国家権力の暴走を食い止め、国民の基本的人権を守り抜くために、権力は法の縛りを受けなければいけない。裁判という、司法権の行使される場において、この原則が失われてしまうとしたら、これほど恐ろしいことはないと思う。
弁護士による弁護を受ける、というのは、「権力の恐ろしさ」を前提としているからこそ導き出される、全国民の当然の権利だ。そのことが、公の電波の上でこれほどまでにないがしろにされる、というのは、かなり問題があると思う。
さらに言うなら、報道機関の使命のひとつは、権力の監視にこそあるはずだと思う。マスコミによる監視機能が働くからこそ、権力のいたずらな濫用は許されない。本来そうした役割を担うべき報道機関が、むしろ権力側の立場に立ったかの報道をすること自体に、そもそも疑問がある。「国民のために」なんて言葉は、言葉だけじゃないか。
はっきり言っておれ自身は、別にこの裁判自体に特別な興味はない。
マイケル・ジャクソンに対する特別な感情もないし、真実がどうであったかはおれには知りようがない。
それでもさ、やっぱりどこかおかしいと思うよ。
長々と書いてしまったけれど、ちょっとした「怖さ」を感じた出来事だった。