Friday, June 10, 2005

『空港にて』読了

村上龍さんの短編集『空港にて』、読了。
ここのところ小説となると、ほとんど龍さんしか読んでないかもしれないね。

本には、あるいは作家には、出逢う時期というのがあると思う。
同じ1冊の本でも、いつ出逢い、手に取るかによって響き方はまったく違うものになる。そしてその出逢い方がぴたりとはまると、それは自分にとっての「世界」の少なくともある部分を、本当にがらりと変えてしまったりするよね。
大学を卒業してからのおれにとって、龍さんはまさにそれだった。

龍さんの作品を最初に読んだのは、おそらく高校生の頃だと思う。
今はポーランドにいる親友が薦めてくれたのが、『五分後の世界』だった。その時も良い作品だと思ったけれど、本当に自分の価値観やものの見方を揺さぶるようなインパクトは、当時のおれにはなかったかもしれない。今考えると、その頃のおれには、この作品を受け入れるだけの土壌がなかったのかなと思うけれど。
次に龍さんの作品を手に取ることになるのは、随分先の2000年。その頃刊行された『希望の国のエクソダス』という作品を、ラグビー部の先輩が薦めてくれたのだけれど、こいつは掛け値なしに素晴らしかった。その時の感動は今でも覚えてるよ。
龍さんは当時、インターネット上で読者に対して「日本の教育問題を解決する方法は?」という問いかけをしていた。龍さんがこの問いに対して用意していた答えは「全国の中学生が一斉に集団不登校をする」というものだったのだけれど、その答えに対して、読者からはかなりの(否定的な)反響があったらしい。そうした反響を受けて龍さんは、教育に対する解のひとつを「小説」という形式で提示することになるのだけれど、それがこの作品。
パキスタンで地雷処理に従事する16歳の少年「ナマムギ」の存在がトリガーとなって、全国の中学校で集団不登校が発生するところから、物語は始まる。数十万にのぼる不登校の生徒たちは、ポンちゃんというひとりの少年を中心として、"ASUNARO"という名の全国的なネットワークを形成していく。"ASUNARO"はやがて、インターネットを最大限に活用して経済的自立をなし得ると、物凄いムーブメントを巻き起こしていく。そしてポンちゃんたちは、彼らなりの「日本への回答」を求めて、ひとつの試みへと向かっていく。
ドラスティックな展開と大胆な設定。でもそれだけじゃない。徹底的に精緻な取材をして、極めて緻密に、正確に書こうという姿勢が貫かれている。龍さんらしい本当に良い作品だと思う。
この小説の中で、主人公のポンちゃんが国会で答弁をするシーンがあるのだけれど、そこでポンちゃんが語った言葉は、とても印象的なものだった。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
これほど鋭く日本の現在を切り取った言葉は、他にはないと思う。

さて、長くなってしまったけれど、その後社会人になって『69』と出逢うと、そこからはもうひたすら龍さんの作品を読み耽ることになる。『五分後の世界』や『希望の国のエクソダス』も、改めて読み直した。小説、エッセイ、対談。あらゆるものに惹かれ、次から次へと手に取るようになった。過去の作品すべてを読み切るまではまだ遠いけれど、これから先も、当分は龍さんの作品を追い続けることになると思う。龍さんの一連の著作は、単純におもしろいというだけではなくて、おれの考え方や、ちょっと大袈裟に言えば「世界の見方」のある部分を、自分でも驚いてしまうほどに変えてしまうことになった。厳密に言うと、「変えた」というよりも、自分の中にくすぶっていたものに、ある種の形を与えてくれた、と言った方が近いかもしれない。
だからおれは、龍さんのことは、尊敬してやみません。

そんな龍さんの短編集『空港にて』。
『空港にて』は、日常的な空間におけるごく限られた時間を切り出して、そこに凝縮されたエッセンスを詰め込んだような作品。例えば空港で待ち合わせをしているほんの数分、あるいはコンビニで商品を選んでいるわずか数秒。そうした短い時間の中に、なんらかの意味づけを与えていくような背景や、過去や、そういうものが丁寧に織り込まれていく。そして、そんな作品の中で龍さんは、「希望」を書こうとしたのだと、あとがきに残している。
「希望」というのは、きっと人それぞれのものだと思う。5年前にポンちゃんが語ったように、そもそも現代の日本において、共同体として共有されるような希望というのは、もはや成立しないのかもしれない。それでもこの短編の中には、希望らしきものが散りばめられているし、それをおれは、希望のひとつの形として受け止めている。
そういう「希望」のあり方は、嫌いじゃありません。

とても良い短編。すぐに読めるし、良かったら読んでみてください。