Saturday, September 08, 2012

『おもかげ復元師』

おもかげ復元師 (一般書)
  • 作者: 笹原留似子
  • 出版社: ポプラ社
  • 発売日: 2012/8/7


本を読んで泣くことなんて、1年間でどれほどあるだろうか。
本では泣けないという人もいるかもしれない。

私は本書のページを繰り始めてすぐに、目蓋を湿らせてしまうことになった。
不覚にも、滅多にない偶然が重なって座ることができた朝7時台の田園都市線で。

でも、それでも読み進めるのを止めることができなかった。
通勤電車はミスチョイスだったと思いながら、心が釘付けになってしまった。

本書の著者である笹原留似子さんをご存知だろうか。
彼女の職業は、納棺師。最近では「復元納棺師」と名乗ることもあるそうだ。亡くなった人を棺へと納める時に、その人の顔を、出来る限り生前の状態に近づけるように復元させていく。遺体の状態も様々で、痛ましく悲惨な最期を遂げられたような場合だと、親族でさえ目を当てることさえできないようなこともある。ウジ虫がわいてしまい、腐臭が漂っているような酷い状態の遺体もある。それでも笹原さんは、心を尽くして、1人ひとりの遺体を、丁寧に復元させていく。生前の姿を教えてくれる写真さえなかったとしても、顔面に刻まれた皺を1本ずつ辿りながら、深い傷跡を綿花で埋めて、ファンデーションをして、髪を丁寧に洗い流して。

大切な人を失って、それでも生き続けなければならない遺族にとって、それが最期の面会なのだから。

おもかげを復元させてあげることで、生前のあの人と、最後にもう一度、向き合える。
そして遺された人達は、様々な形で閉じ込めていた思い、伝えられなかった思いを心から溢れさせ、涙を流して、故人との大切な時間を甦らせながら、「死」という辛い現実を少しずつ受け入れていく。
死に直面するのは誰しもが辛い。でも、おもかげに救われることだってある。いや、おもかげこそが、と言った方がいいかもしれない。笹原さんは「死に向き合う」ということの意味を誰よりも深く受け止めているからこそ、「おもかげ復元師」として携わることになった全ての瞬間に、自らの心の全てを注ぎ込む。

東日本大震災の傷跡も生々しい3月20日、彼女は陸前高田市にある遺体安置所に向かう。そこで彼女の目に飛び込んできたのは、3歳くらいの少女の遺体。小さな納体袋には「身元不明」の文字。既に死後変化が始まっていたその小さな遺体を前にして、彼女は「戻してあげたい」と心から願う。復元させてあげることはできる。技術も、そして道具もある。でも、叶わない。運命は残酷だ。身元不明の遺体に触れることは、法律で禁じられていたからだ。何もしてあげることができないまま、彼女は現場を後にせざるを得なかった。

その後、彼女は「復元ボランティア」として、数多くの遺族達のために、数多くの遺体を復元していく。
彼女自身よりも残された遺族の方がよく知っている、「生前のあの人の笑顔」を取り戻すために。

大切な人の死を受け入れるのは、とても辛く悲しいことだ。
でも、大切な人の死を受け入れていくことで、遺された人はきっと心に刻み込む。
あの人と過ごした最高の時間を。
決して忘れることのない素晴らしい思い出を。
そして、今も自分が生きているということが、紛れもなく奇跡だということを。


本書が多くの人に読まれることを願ってやまない。
切ない物語だけれど、読み終えた時に、きっと心のどこかを綺麗に洗い流してくれるはずだから。


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こちらも読んでみてほしい。笹原さんが現場で描かれた絵日記だ。
こうして復元された笑顔は、遺された人達が笑顔を取り戻すきっかけなのだ。

おもかげ復元師の震災絵日記 (一般書)
  • 作者: 笹原留似子
  • 出版社: ポプラ社
  • 発売日: 2012/8/7

Sunday, September 02, 2012

『僕は写真の楽しさを全力で伝えたい!』

ややHONZ的ではない本のことを。



実は、写真はとても好きだ。昔はそうでもなかったけれど、最近は写真を見ることも、撮ることも、アルバムにすることも、とても楽しいものだと常々思っている。ただ、撮ってプリントする量は、ここのところかなり減ってしまったけれど。iphoneは良くも悪くも気軽すぎるので。 さて、青山裕企。『ソラリーマン』や『スクールガール・コンプレックス』で話題になった若手写真家だ。本書は、そんな著者が肩肘張らずに友達感覚で語った「写真へのいざない」といったところだろうか。新書だけれど、カラー写真が幾つも散りばめられていて、パラパラと眺めているだけでもそれなりに楽しめるのは、結構うれしい。

著者自身が書いているように、写真は、撮る人が違えば決して同じものにはならない。
それは「写真には『視点』が写るからだ」という著者の指摘は、極めてオーソドックスな写真観で、全くその通りだと思う。なので、ちょっと俗っぽい書き方になってしまうけれど、例えば「スクールガール」を撮る時に、ここだよなあと思うポイントなんかも当然違うんだよね。
そう考えた時に、俺、ちょっとポイントが違うかも、とか思ってみたりして。
まあ、これ以上色々書いても仕方ないかな(笑)。

Saturday, September 01, 2012

『OPEN』 - 悲痛で、そして甘美な英雄アガシの半生



OPEN―アンドレ・アガシの自叙伝





  • 作者: アンドレ アガシ、Andre Agassi、川口 由紀子


  • 出版社: ベースボールマガジン社 (2012/05)


  • 発売日: 2012/05




  • 想像してみてほしい。

    産まれて間もない息子が眠るベビーベッドの上からテニスボールのモビールを吊るし、息子の右手に卓球のラケットをくくりつけて「ボールを打ってごらん」と語りかけたというテニス狂の父親に育てられ、テニスをしたいかと誰からも問われることのないままに、テニスが人生そのものとなっていった少年のことを。

    わずか7歳にして、「ドラゴン」と名づけられた改造ボールマシーンが放つ剛球をひたすらに打ち返す日々を強要され、リターンをネットにかけようものなら、元ボクサーで暴力気質の父親から割れんばかりの怒声を浴びせられるという極限状態を生き抜くしかなかった悲しき天才のことを。

    その後、若干16歳にしてプロのテニスプレーヤーに転向すると、本人にとって必ずしも順風満帆と言える戦績ではなかったとしても、世界のトップランカーであり続け、そのキャリアにおいて全米・全豪・全仏・ウィンブルドンの4大大会を全て制覇。1995年のアトランタ五輪でも金メダルに輝き、男子シングルス史上初の「ゴールデンスラム」を達成したプレーヤーとなりながら、一度として心の底からテニスを好きだと言うことができず、誰にも明かすことのない本心では、常にテニスを嫌悪しなければならかった英雄のことを。

    それが、アンドレ・アガシだ。

    彼には、天賦の才能があった。そして、本人が望むと望まざるとに拘らず、その才能を開花させるための土壌があった。彼の父親は、7歳の少年アンドレに平然と言ってのけたのだ。
    「毎日2500個のボールを打てば、1週間で1万7500個、そして1年の終わりには100万個近くのボールを打つことになる。年に100万個のボールを打つ子は無敵の子となるだろう。」

    そして彼は、本当に打った。その半生において、何百万、何千万個ものボールを。

    本書『OPEN』は、そんなアガシの自叙伝だ。

    1986年にプロとしてデビューしたアガシの戦績は華々しい。ATPツアー(シングルス)通算60勝。ATPランキング1位に101週に渡り君臨。4大大会通算8勝(全豪4回、全米2回、全仏・ウィンブルドン各1回)は、ジミー・コナーズやイワン・レンドルと並んで世界8位タイだ。一時は極度の不調に陥り、ランキングを141位まで落としたこともあったが、その後見事な復活を果たし、2006年9月の全米オープン3回戦敗退をもって36歳で引退するまで、同世代のプレーヤーの中で最も長い間、現役としてプレーを続けた。男子プロテニス界の英雄だった彼は、そのプレーのみならず、独創的なファッションやヘアスタイルでも話題を集め、カリスマ的な存在でもあった。27歳にして美人女優ブルック・シールズと結婚。悲しいかな2人の関係はわずか2年間で破綻を迎えるものの、後には女子プロテニス界のスーパースターであり、当時、世界中の誰もかもを(おそらくはテニスに興味がない人達さえも)魅了したシュテファニー・グラフと再婚を果たしている。

    こう書いてしまえば、本書は「英雄譚」ということになるのかもしれない。
    でも、そうではない。決して本書は英雄がその英雄性を綴ったものではないのだ。

    むしろその人生の物語は、読む側の胸を裂くほどにナイーブで痛々しく、繊細で悲しく、アガシ自身の言葉を借りれば「矛盾に満ちて」いる。そして本書の表題通りに、彼はその人生を「OPEN」に、赤裸々に綴っている。自らが抱え続けた苦しみ、葛藤、さらけ出すことなく人生を終えることもできたであろう一人間としての弱み、そうしたものを隠すことなく、ストレートに吐露している。それゆえに、本書は多くのスーパースターの自叙伝とは一線を画しており、紛れもなく傑作だと言えるだろう。

    それでも、不思議なことに、やはり本書を「ピースの片側」だけで読むことはできない。それはおそらく、アガシ自身にとっても本意ではないだろう。本書のエンディングにおいて、アガシはこう語っている。
    「僕は矛盾したことを言っているって?それはいい。では僕は矛盾したことを言おう。(中略)人生は両極の間のテニスの試合である。勝つことと負けること、愛と嫌悪、開くと閉じる。それは早い段階で、その痛々しい事実を認識する助けとなる。それから自分の中に正反対のものである両極を認識する。そしてもしそれらを受け入れることができないとしても、あるいはそれらに甘んじることができないとしても、少なくともそれらを受け入れて、前に進むことだ。してはいけないことは、それを無視することである。


    本書はアガシの悲痛な心の叫びであり、それは間違いなく読む側の胸に迫るのだけれど、一方でアガシの半生は、どこか甘美なのだ。

    アガシの周囲には、素晴らしい仲間が常にいた。例えば、専属トレーナーとしてアガシの傷ついた心身を誰よりもやさしく癒したギル・レイエス。(後にアガシは、グラフとの間に授かった息子ジェイデンに「ギル」というミドルネームをつけることになる。)あるいは、ツアー転戦中も常にアガシの心の支えであり続けた牧師、J.P.ことジョン・パレンティ。アガシをプロテニスプレーヤーとしての栄光へと導いた名コーチ、ブラッド・ギルバート。同時代に生き、同じコートの上に立つことでお互いの輝きを高めあった最高のライバル、ピート・サンプラス。そして、アガシにとって最高のパートナーであり人生の伴侶となったシュテファニー・グラフ。

    そういう魅力的な人間達に囲まれて、お互いに心を通わせあいながら、アガシはスーパースターとしての日々を生きる。その過程で多くのことを学び、愛情の意味を知る。そう、本書は愛情の物語でもあるのだ。心から嫌ったテニスの世界で、誰よりも長い21年間もの現役生活を送ることになったのはある種の皮肉かもしれないが、やはりテニスは彼の人生の中核であり、テニスこそが彼の大切な「チーム」との出会いを与えてくれた。アンドレ・アガシという1人の人間を優しく受け入れ、常に愛情をもって応じてくれたかけがえのない仲間達は、紛れもなく最高のものだった。だからこそ、本書の甘美さに偽りはないのだ。

    読んでみてほしい。そして、追体験してみてほしい。
    テニス界の英雄アンドレ・アガシの人間性に満ち溢れた、「ピースの両側」を備えた人生を。

    Thursday, August 16, 2012

    『昭和16年夏の敗戦』


    昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)


    • 作者: 猪瀬 直樹、undefined、猪瀬 直樹のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら
    • 出版社: 中央公論新社 (2010/06)
    • 発売日: 2010/06


    ずっと気になっていながら、なぜだか手に取っていなかった。
    そういう本が、数え切れないほどある。
    昨日、日本橋丸善をふらついていて、ふと思い立った。ちょうど『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』を読了した直後だったのが影響したのかもしれない。そう、今こそ読まなければいけない。そう直感して、2Fの文庫本コーナーに向かった。
    そして、レジで支払いを済ませた頃にふと気づいた。
    そういえば8月15日じゃないか、って。

    それが本書。猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』だ。
    本との出会いも、人との出会いのように不思議なものがあると、つくづく思う。
    その意味でも本来は昨晩読了したかったのだけれど、残念ながら1日遅れとなってしまった。ただ、間違いなく言えることがある。
    読んでよかった。

    昭和16年夏の敗戦。つまり、1941年だ。
    玉音放送が流れた昭和20年夏、その4年前の敗戦ということになる。

    昭和15年9月30日、勅令により内閣総理大臣直轄の組織として「総力戦研究所」が開設される。翌16年4月、第一期研究生として召集されたのは、官僚27名(文官22名、武官5名)、民間8名、皇族1名の総勢36名。全員が30代半ばまでの若手、各分野で10年近い現場経験を持った一線級のエリートだった。
    7月12日。研究生に「第一回総力戦机上演習第二期演習情況及課題」が提示される。この「机上演習」こそが画期的だった。つまり、シミュレーション。具体的な事実、当時の機密資料も含む本物のデータに基づいて、与えられたシナリオから想定される展開を予測する。36名の研究生は、<模擬内閣>を組閣して各々の役職を定め、<閣議>の場で徹底的に議論を戦わせる。そして、<模擬内閣>として導いた政策判断を所員(つまり教官)にぶつける。
    重要なのは、この第一回机上演習で与えられたテーマだ。
    「英米の対青国(日本)輸出禁止という経済封鎖に直面した場合、南方(オランダの植民地であるインドネシアのボルネオ、スマトラ島など)の資源を武力で確保するという方向で切り抜けたら、どうなるか」
    石油に代表される資源を輸入に依存していた日本の南進政策、それは必然的に「日米開戦」を意味していた。つまり36名の若き研究員は、日本の運命を決することになる12月8日を前にして、日米が開戦すればどうなるのかを、ひたすらに考え、シミュレーションしていたということだ。そして、その結論は明らかだった。
    8月27日、<模擬内閣>は第三次近衛内閣の閣僚を前に、これまでの机上演習から導いた結論を報告する。そして、その報告が終わると、当時陸軍相だった東條英機は立ち上がり、彼らに語りかけた。
    「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。(中略)なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります。」

    その後の現実は、誰もが知るとおりだ。
    ただ、驚くべきことにその現実は、総力戦研究所で展開されたシミュレーションの結果とあまりにも酷似していた。そう、昭和16年夏の敗戦と。

    それが何を意味しているのか。
    日米開戦とは、そして東條英機とは何だったのか。
    昭和16年夏の敗戦をもって、昭和20年夏の敗戦を回避できなかった日本とは。

    そういうことが、非常に鋭く、綿密な取材に基づいた厚みを持って綴られている。
    やはり、今、読んでよかった。

    Wednesday, August 15, 2012

    『墨を読む』


    墨を読む―一字ひとこと (小学館文庫)




    • 作者: 篠田 桃紅、undefined、篠田 桃紅のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: 小学館 (1998/05)

    • 発売日: 1998/05


    俺が幼い頃は、父親は本を読まなかった。
    自宅で読書に耽っている姿は、ほとんど記憶にない。
    そんな父が、ある頃から本を読むようになった。市の図書館に通い、何冊かの本を借りてきては、枕元に置いて読むという生活スタイルになっていった。それが正確にいつ頃だったかは思い出せないが、少なくとも40歳を過ぎてからだったような気がする。(自信はないけれど。)

    さて、本書はそんな父の書棚に並んでいたものだ。
    幾つかは、学生時代に俺が買って実家に送ってあった本もあったけれど、本書を買った記憶はない。今の状態になる前に、父が自ら買って読んだのだろう。なんとなく気になったので、返事のできない父の右肩に手を置いて、一言「持っていくよ」と声をかけて、鞄のポケットに入れて帰ってきた。
    書家、篠田桃紅。その書に短文が添えられているけれど、メインはやはり書だ。

    鋭くて、美しい。文字とはこうして芸術になるのか。
    小さな文庫本で見て感想を書くのも失礼かもしれないけれど。
    素直にいいなあと思うものが、本当に沢山あった。いい本だと思います。

    Monday, August 13, 2012

    心を開く建築


    SHIGERU BAN




    • 作者: 坂 茂、undefined、坂 茂のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: ファイドン (2005/06)

    • 発売日: 2005/06


    父はずっと自宅を事務所に建築設計士をしていた。
    約2年前に病気をして、右半身麻痺と言語障害が残ってしまい、今は車椅子。寂しいけれど、母が廃業の手続きをすることになった。
    言葉を失った父は今、考えていることを表現できない。
    ただ、何かを考えている。目がそう語っているからね。

    帰省する時に、何か気持ちが開くものを持っていこうと思った。
    モノに対する執着心が全くない人なので、ちょっと悩んだのだけれど、最終的に選んだのが本書だ。坂茂。紙や竹、布といった有機的な素材を用いた建築を数多く生み出してきた日本を代表する建築家の作品集だ。

    そうしたら、驚くほどの反応があった。
    分厚い作品集の頁を、多少ぎこちない左手で1枚ずつ繰って、本当に食い入るように坂茂の建築を見つめていた。その姿を見ていて、父の好奇心が全くもって枯れていないということが、はっきりと分かった。

    坂茂の建築は、俺も好きだ。自分が好きだから選んだということもある。
    建築を生業とした親に育てられながら、建築を表現する言葉を持っていないことが本当に情けないけれど、坂茂の建築は、現代的でありながら、冷たくない感じがする。クールすぎないというのかな。寂しくない。包装された状態で、中身を確認せずに買った1冊だけれど、素晴らしい内容で本当に嬉しかった。

    実は、横浜の自宅にも置いておきたくなったくらいです。

    Saturday, August 11, 2012

    『理不尽に勝つ』


    理不尽に勝つ




    • 作者: 平尾 誠二

    • 出版社: PHP研究所

    • 発売日: 2012/4/17


    平尾誠二さんといえば、神戸製鋼の黄金時代を築いた名プレーヤー。ラグビーを知らない人にも広く知られているという意味でも、日本ラグビー界において稀有な存在だ。現役引退後は神戸製鋼GM、ジャパン監督として日本ラグビーを牽引しながら、一方ではクールな知性を武器に、多方面で幅広く活動されている。
    平尾さんは著書も多くて、俺自身も何冊か読んでいるのだけれど、当然ながらラグビーを正面から扱ったものが多い。プレーヤーとしてのみならず、指導者としての豊富な経験をバックグラウンドとして、様々な切り口から多面的にラグビーが捉えられていて、興味深い著作が幾つかある。ただ、本書に関して言えば、ラグビーそのものというよりも、ラグビーをコアのエッセンスとした「平尾式人生訓」といった感じの方が近いかもしれない。その意味では、ラグビーと縁遠い人にも読みやすい1冊だ。

    平尾さんというのは、「理」の人なのかなという気がしている。
    例えば本書のタイトルにもなっている「理不尽」というものが立ち塞がってきた時に、「気合」や「根性」でとにかく乗り越えようとするのではなくて、「理不尽の先に、何があるのか」「今、理不尽に立ち向かうことの意義や意味は、どこにあるのか」といったように、そこに理不尽が存在することの「理」を突き詰めることで、自身をモティベートしていくタイプなのかもしれない。ただそれは、「気合」や「根性」ありきではないというだけで、決して「気合」や「根性」を否定するものではない。ここが重要だ。

    平尾さんは言う。人間は生まれながらにして不公平な存在である以上、どこかに必ず理不尽が存在するのは当然だ。でも、その理不尽こそが人を育てるのだ、と。それが本書のキーメッセージであり、その基本的なスタンスのもとで、平尾さん自身がいかにして理不尽と向き合い、そして乗り越えてきたのかが綴られている。

    でも、誤解を恐れずに想像するならば、おそらく平尾さんは、本書のために自身の経験を再構成されているようなところがあるのではないだろうか。つまり、「理不尽に勝つ」というメッセージが先にあって、その立ち位置を定めた上で、改めて自身の経歴を振り返っているような、そんな感じが多少しなくもない。そして俺としては、「理不尽に勝つ」というよりも、「理不尽と感じない」という方が実感に近かったのではないだろうかと、勝手ながら想像している。

    理不尽だと明確に意識しながら毎日を過ごすのは、結構な苦行だと思う。例えば自分に後輩がいたとして、毎日が理不尽の連続でしかないと嘆いていたとする。俺だったら、「逃げてしまってもいいんじゃないか」と言ってあげたい。「理不尽の先にしか幸せはないのだから、理不尽から逃げるなよ」とは、正直ちょっと言いづらい。本当に理不尽だったら、逃げる選択肢を残しておいていいんじゃないか。「乗り越えられない自分は、やはりダメなのか」といったように、不必要に自分を追い込むこともないと思う。でも、場合によっては「それって、考え方を変えると理不尽でもないのかもしれないね」というケースはあるような気がして、これだとちょっと事情は変わってくる。

    だからきっと、本当のコアメッセージは、「理不尽に勝つ」というよりも、「理不尽でなくしてしまう」ということなんじゃないか。平尾さん自身も、きっとそういう「理不尽の消化」をしてこられたのではないだろうか。
    なんとなくだけれど、勝手ながらそういう想像をしています。

    Wednesday, August 08, 2012

    『アフリカの奇跡』



    ケニアでマカダミアナッツ工場を起業・経営して、マカダミアナッツ業界で世界5位、年商約30億円を誇るアフリカ有数の食品加工メーカーに育て上げた日本人がいる。
    小石川高校ラグビー部出身。10歳の頃に左目を失明していた隻眼ラガーマンは、まさしく魂の赴くままに、日本を取り囲む大海を軽々と飛び越えて、アフリカの大地で自分自身の人生を煌々と燃やし続ける。そして70歳を過ぎた今も、そのバイタリティが発する強烈な輝きを失うことなく、日々挑戦を続けられている。
    それが本書の著者、佐藤芳之さん。
    もう本当に魅力的すぎる。ラグビー部というだけでも、ぐっと来てしまうのに。

    一応書いておくと、本書は経営の指南書ではない。
    日本とは文化的・社会的背景が全く異なるケニアの地で、現地人のモチベーションを巧みに引き出しながら、「アフリカ人の自立のため」の工場経営を常に意識していたという佐藤さんの経営手法は、当然ながら非常に興味深い。アフリカビジネスが注目されている今、その経営から学ぶべき点は多い。でも、やっぱり経営の本じゃない。
    本書は、ヒトがメインの本だ。
    「ヒトがする経営」ではなくて、「経営するヒト」の本。この順序は大切だ。
    だからこそ、本書は圧倒的に面白い。佐藤さんの人間的な魅力が詰まっていて、その器の大きさは、読む側の心を強く揺すぶってくれる。

    本書と並んで平積みされている多くのビジネス書は、昨今のトレンドもあって、非常に「小さなこと」を殊更クローズアップしているものが多い。「ダンドリ力」「気配り力」「質問力」といった調子で、「大切だけれど、小手先でしかないもの」が蔓延している。でも結局のところ、そんなことではないのだというのが、本書を読めばよく分かる。
    最後は「器」、これに尽きるなあと。

    ページを繰るたびに、素晴らしい言葉が随所に転がっている。
    是非読んでみてほしい。
    チマチマしたくない人に。そして、あまねく全てのラガーマンに。

    最後に、本書の末尾に添えられたジェームス・ディーンの言葉を書き留めて。
    "Dream as if you'll live forever. Live as if you'll die today."

    Sunday, August 05, 2012

    クーリエ。そしてブータン。

    久しぶりにクーリエも買ってみた。
    特別付録CD『一度は聴いておきたい最高の作曲家10人(The Greatest 10 Composers)』なんかもあって、かなり楽しめる1冊だ。読み応えがありすぎて、なかなか通読できないのだけれど、クーリエは(雑誌、編集部ブログ共に)いつも新鮮な驚きがあって面白い。
    例えば、『ブータンは本当に「幸せな国」なのか』というレポートがある。GNH(国民総幸福量)という独自の指標を掲げるアジアの小国、ブータン。2005年の国勢調査において、97%の国民が「幸せ」と回答したことは有名だが、その調査がどのようなものだったかは殆ど知られていない。編集部ブログ(http://courrier.jp/blog/?p=12123)から引用してみよう。

    『この質問は、自分の幸福度を「とても幸せ」「幸せ」「あまり幸せでない」の3つから選ぶという単純なものでした。5段階でもなく、4段階でもないというところが一つのポイントです。「ふつう」を選びたい人は、「幸せ」を選ぶしかないようです。
    (中略)97%というのは、じつは「とても幸せ(very happy)」と「幸せ(happy)」の両方の回答をあわせた割合です。』

    その後、2010年の国勢調査では全く異なる調査方法が採用され、結果として「幸せ」な国民の割合は41%にまで激減している。そのカラクリは、編集部ブログに詳しいけれど、こうしたことひとつを取ってみても、メディア・バイアスは相当なものがある。
    本誌記事はそんなブータンの実情を、写真を交えながら豊富な文量で紹介していて、なかなか考えされられるものがある。「難民キャンプ」「反政府武装勢力」といった、一般的なブータンの印象とマッチしない言葉が、今、どういう意味を持っているのかということを、正面から語っている良記事だと思う。

    なんてことを、付録CDを聴きながら書いてみたのだけれど、このCDもなかなか聴き応えがあっていいですよ。(まあ、クラシックはほぼ門外漢だけど・・・。)

    Friday, August 03, 2012

    『俳句いきなり入門』


    俳句いきなり入門 (NHK出版新書 383)




    • 作者: 千野 帽子

    • 出版社: NHK出版

    • 発売日: 2012/7/6


    ひそかに、俳句を書いてみようと思ったことがある。
    Facebookでも2回ほど書いてみた。いや、正確には2回目は季語がない川柳なので、1回しか書いていないかな。誰に語りかけるでもなく、ふと思い立って書き留めてみたつもりなのだけれど、実はパートナーは心の中で思っていたそうだ。
    「やめてくれ」って(笑)。

    さて、本書はやや異端の俳句入門書だ。
    なかなか変わり種のイベント、公開句会「東京マッハ」の司会を務める千野帽子さんが、俳句の世界の魅力を、独特の切り口で綴っている。

    まず、基本的に句作の入門書ではない。著者によれば、俳句を支えているのは作者ではなく、読者なのだそうだ。句会があるから、俳句を作る。そして、句会の魅力は投句よりも選句にある。本書は一貫して、そのスタンスで書かれている。

    句会か。考えたこともなかった。
    でも、本書を読んでいると、これが面白そうに思えてくる。
    何が面白いか。俳句の意味というのは、作者のちっぽけな自我によって規定されるものではなくて、作者の意図を越えて、読む側の想像力が十七音の外側に無限の広がっていくことで、新たな意味が常に発見されていく。そのプロセスこそが面白いのだというのが、本書のメッセージだ。句会とは、そのための舞台なのだ。

    俳句とは「自分の言いたいこと」を表現するものではないと、著者は言う。

    『俳句は自分の意図にではなく言葉に従って作るものだ。だから自分で思いつかない表現が出てくる。自分の発想の外側に着陸できる。坪内稔典さんも言うとおり、感動したから書くんじゃなくて、書いたから感動するのだ。』
    『「自分の意図をわかってもらう」ためなら、なぜ十七音でリズムも決まってて季語も切れも必要なこんな縛りだらけの形式を選ぶのだろう。ふつうにもっと長い文章書けばいいじゃん。』

    なるほど。興味深い指摘だ。
    言葉が先にあるのか。そう思いながら俳句を読んだことは一度もなかった。
    これからは、多少なりとも俳句の読み方が変わってくるかもしれない。

    Wednesday, August 01, 2012

    グラウンドレベル

    ロンドン五輪を全く見ていないので、本当は何かを書くのも憚られるのだけれど、思うところあって、女子サッカーの南アフリカ戦におけるドロー狙いのことを。
    基本的に想像なので、事実に反することもあるかもしれないけれど。

    一億総監督とはよく言ったもので、誰もが上からの視点で語っている気がする。
    五輪はメダルが全てであり、当然の戦略だという人がいる。一方で、常に全力で臨むのが代表チームであり、意図的にドローを狙うのはフェアじゃないという人もいる。考え方は人それぞれで、正解がある訳でもない。ただ、大きくはこの2つに集約されるほぼ全ての言説が、サッカー女子日本代表チームの「あるべき姿」を「上から」、あるいは「論じる立場から」なされているように感じて、どうしても違和感を覚えてしまう。

    こういう時、俺はいつもグラウンドレベルを想像する。自分自身は、残念ながら国際レベルでのぎりぎりの勝負を経験していないけれど、選手の側に立って、当事者として戦う人間の内面を想像することはできる。勿論それはあくまで想像で、正しくないかもしれない。でも、トップアスリート達の繰り広げる戦いに対して、そんな視点からの楽しみ方があってもいいんじゃないかと、常に思っている。

    スターティングメンバーは、7人が入れ替わったそうだ。この7人も、4年間という時間の全てをこの一瞬のために捧げてきた人間だと思う。オリンピックでのボールタッチは、トータルでどのくらいの数になるのか分からないけれど、その1つひとつのボールタッチを最高のものにするために、4年間という時間を惜しみなく捧げることができるのがトップアスリートであり、五輪のピッチに立つ資格を掴み取るというのは、きっとそういうことなのだと思う。

    ドローを狙って戦う。それは大局的に見れば、考えられる選択肢だったのだろう。そして、それがチームの方針であれば、メダル獲得という最大の目標のために、求められるベストを尽くす。まさしくプロフェッショナルの姿勢だと思う。
    ただ、これは断言してもいい。7人の選手にとって、この90分というのは、ようやく「本物のピッチ」で、その機会を逃せばもう一度掴み取るチャンスは二度と来ないかもしれないような、そんな機会だったはずなんだ。彼女達だって、まさに人生そのものを懸けてロンドンに乗り込んだトップアスリートなのだから。

    この90分間で、4年間の己を全て注ぎ込んだ最高のパスを。一寸の集中力の乱れもなく、完全に研ぎ澄まされた最高のシュートを。ボールタッチがない時にも、自分、そしてチームを最も輝かせる可能性を探して、最高の無駄走りを。
    ピッチの上の選手達は、そう心に誓っていたはずだ。少なくとも俺は、それが選手の性だと思っている。相手が格下であるとか、既に決勝リーグ進出が決まっていたとか、そんなことは関係ない。自分自身が積み上げてきたものを、最高の形で表現したい。それができれば、その先には最高の結果が必ず待っているはずだ。そういう思いで戦いの舞台に臨むのは、自然なことじゃないか。

    ただ、「ベストを尽くす」というのは必ずしも「邁進」でもなければ、「ガムシャラ」でもない。(大会全体を通じて)チームが置かれたポジション、相手との力関係、得失点差や累積カードといったバックデータを冷静に見つめた上で、その瞬間の「ベスト」というものを見極めることが必要になる。今回のポイントは、つまりそういうことなのだと、俺は思っている。
    「ゲーム展開によっては、ドローでも」
    この短いフレーズの意味するところは、実際にはかなり深いんじゃないか。
    そのフレーズが監督にとって、そして選手にとって意味するところを、もっと丁寧に想像してみてもいいんじゃないか。更には、選手にとって意味することを知ってなお、選手達は大局のためにプロフェッショナルのプレーをしてくれると信じてメッセージを出した監督の思いを。そういう中で、ドローのゲームをマネージした選手達のことを。

    正解なんてなくても。

    Tuesday, July 31, 2012

    『成功はゴミ箱の中に』


    成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝―世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者 (PRESIDENT BOOKS)




    • 作者: レイ・A. クロック、ロバート アンダーソン、undefined、ロバート アンダーソンのAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら、Ray Albert Kroc、Robert Anderson、野崎 稚恵、野地 秩嘉、孫 正義、柳井 正

    • 出版社: プレジデント社 (2007/01)

    • 発売日: 2007/01


    こちらも先日読了。
    マクドナルド創業者レイ・クロックの自伝だ。

    これがまた面白い。名著以外の何者でもない。
    孫正義、柳井正による対談・解説が添えられているが、日本を代表する起業家の2人が揃って感銘を受け、多大なる影響を受けたというのも頷ける。その圧倒的な行動力とリーダーシップ、ビジネスに対するあくなき挑戦の姿勢は凄まじい。

    本書で紹介されている具体的なエピソードを幾つか紹介したいところだけれど、もう深夜になってしまったし、そもそも本書に貼った付箋の数が多すぎて選別するのも一苦労なので、ラストに綴られたレイ・クロックのメッセージだけでも引用しておきたい。

    「やり遂げろ ― この世界で継続ほど価値のあるものはない。才能は違う ― 才能があっても失敗している人はたくさんいる。天才も違う ― 恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世にいる。教育も違う ― 世界には教育を受けた落伍者があふれている。信念と継続だけが全能である。」

    『読書の技法』


    読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門




    • 作者: 佐藤 優

    • 出版社: 東洋経済新報社

    • 発売日: 2012/7/27


    基本的に、読書法の類を読むよりも、読書した方がいい。
    勉強法の本を読む時間があったら勉強すればいい、というのと同じだ。
    ただ、読書の世界にも間違いなく別格がいる。そして、少なくとも松岡正剛と佐藤優の2人がまさに別格の存在であるということには、ほぼ異論がないだろうと思っている。そんな訳で、昨日偶然見つけた本書を読み通してみた。

    結論。佐藤優はやはり知の巨人です。
    もちろん、佐藤優の著作は本書以外にも多数あり、その知の深淵が如何なく発揮されている好著の数々を思えば、特筆すべきものではないのかもしれない。ただ、やはり本書で紹介されている佐藤優の「読み方」は凄い。綴られている内容は決して突飛なものではなく、多くの読書家が近しいことをしているようなものなのだけれど、その結果としての知的消化力・吸収力は、もはや別次元といった感じがする。

    本には「簡単に読める本」、「そこそこ時間がかかる本」、「ものすごく時間がかかる本」の3種類があるという。その上で、佐藤優はこう言ってのける。

    「標準的なビジネスパーソンの場合、(中略)「ものすごく時間がかかる本」がないという条件下で、熟読できる本の数は新書を含め1ヵ月に6~10冊程度だろう。つまり、最大月10冊を読んだとしても1年間で120冊、30年間で3600冊にすぎない。
    3600冊というと大きな数のように見えるが、中学校の図書室でもそのくらいの蔵書がある。人間が一生の間に読むことができる本の数はたいしてないのである。この熟読する本をいかに絞り込むかということが読書術の要諦なのである。」

    確かに、現時点の俺の実感に近い。多少余裕がある月だともう少し読めるけれど、月10冊は結構いい線だと思う。(ただし、ここがポイントなのだけれど、これは残念ながら佐藤優の言うところの「熟読」ではない。あくまで「精読」といった程度だ。この時点で、佐藤優はもはや追いつけない場所にいる。)でもそんなものは、中学校の図書館程度なのだと・・・。まだまだ、全然足りないのを痛感してしまう。

    一方で驚いたこともある。佐藤優でさえ、熟読する本は月に4~5冊だというのだ。これは想像以上に少ないと感じた。ただし、彼は月平均100冊程度の献本は全て速読で全ページに目を通し、それに加えて新刊本を70~80冊、古本を120~130冊買い、これらも全て読んでいるそうだ。月300冊。その中から、本当に読むべきものを1%程度にまで絞り込んでいるということになる。一般人には、とても真似できない。

    でも、それでも始められるところから、自分の読み方を作っていきたい。
    俺自身は、基本的に自身の「読む力」を信用していない。スポーツでいえば、基礎練習をきちんと積まずに無手勝流で適当にやっている感じがする。これは読書歴が浅いことも大きいような気がする。(今でこそ自分でも信じられないが、高校を卒業するくらいまでは殆ど読書しない人間だったのだから・・・。)
    そして、こういう達人(というか、もはや傑物)の読書スタイルを垣間見ると、自分には「量」が足りないということを痛感してしまう。それも、「精読」ではなくて「速読」、つまり「捌く読書」が決定的に足りていない。

    さて、これからどこまで読めるかな。
    まあでも、中学校の図書館くらいは越えていきたいところです。

    Monday, July 23, 2012

    『あなたの知らない愛知県の歴史』


    あなたの知らない愛知県の歴史 (歴史新書)




    • 作者: 山本 博文

    • 出版社: 洋泉社

    • 発売日: 2012/6/6


    最近は新書レーベルの乱立が凄まじいが、本書もそんな新興レーベルの1冊。
    洋泉社の歴史新書。洋泉社HPを見ると、今年の1月から刊行されているようだ。本日現在、刊行は7点。今後の展開はどうだろうか。
    (話は逸れるが、『下山事件』のレビューを書いて以来、「れきし」の漢字変換が「轢死」になってしまった。。今日をもって、この不吉な誤変換も卒業かなと。)

    さて、愛知県。俺の生まれ育った場所。
    織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国の3傑を輩出した地。
    世界のトヨタを擁する日本製造業の一大中心地。
    実は寺院数が日本一(神社も3位)という、信心深い(?)ものたちの棲家。
    そんな愛知県の歴史について、時代順にQ&A形式でまとめたのが本書だ。

    今でこそ横浜在住だが、高校卒業までの18年間を豊橋で過ごし、就職後も、昨年末までの4年間は名古屋勤務だった身として、正直に告白しておきます。
    地元のことなんて、実は殆ど知らなかったのだと。

    熱田神宮に草薙剣が祀られた理由も、西尾のてんてこ祭りも、瀬戸窯を開いた藤四郎の伝説も、猿投神社に伝わる「棒の手」も、若き日の秀吉が矢作橋上で蜂須賀小六と出会ったというが、そもそも当時の矢作川には橋が架かっていなかったということも、木曾が尾張藩の飛地となった理由も、名古屋コーチンを生み出したのが廃藩置県で食い扶持に窮した藩士の海部荘平が始めた「武士の商法」(養鶏)だったということも、何もかも知らなかった。

    特に戦国期を中心として、愛知県が生んだ偉人はなかなか多いので、愛知県に縁のない人が読んでも十分に楽しめる内容だ。ただ、やはりまずは愛知県民にオススメしておきたいところだ。愛すべき日本の中心を、今よりも親しみのあるものに。

    Sunday, July 22, 2012

    「奈良美智:君や僕にちょっと似ている」

    久しぶりに美術館に行ってきた。
    「奈良美智:君や僕にちょっと似ている」@横浜美術館。
    http://www.nara2012-13.org/exhibition/

    素直に、とても良かった。「あれ、マヒロちゃんに似てるよね」とか「いやいや、ハンナには全然似てないよ(笑)」とか言いながら、肩肘張らずに作品を楽しめて。

    奈良美智さんの描くキャラクターは、どれもがかわいい訳ではないと思うのだけれど、確かにぐっと惹きつけるものがあるよね。ちょっとした崩れや小さな歪みなんかも、観る側をそわそわさせるものではなくて、ある種の愛嬌になっていて。
    率直な感想として、デッサンやラフスケッチの展示はさほどでもないかなと思ってしまったところもあるけれど、完成されたアクリル画の数々は、やはり素晴らしかった。

    会場もそんなに混んでいなくて、展示も十分な数があって、見応えのある展覧会だと思う。まあでも、本音を言ってしまうと、奈良美智さんのようなタイプのアートは、もっとくだけた愉しみ方でもいいような気はするかな。美術館って、皆が押し黙って作品を鑑賞して、感想を言葉にするにも声を潜めなければいけないような雰囲気があるけれど、もっと気楽に、格調を求めずに観ることができれば、より愉しいかもしれないなあと思ったりもする。「アタシの若い頃は、まあこんな感じよね」みたいな明るいジョークが会場に満ち溢れるような感じがいいよなあ、なんて。

    ちなみに、常設展もざっと観たのだけれど、こちらもかなり良いです。
    写真の展示も結構な数があるのだけれど、木村伊兵衛や土門拳の撮ったポートレート作品なんかはかなり楽しめます。上村松園、川合玉堂、中川一政、藤田嗣治といった凄い顔ぶれは、時代の迫力を感じさせてくれます。

    Saturday, July 21, 2012

    『お待ちになって、元帥閣下』


    お待ちになって、元帥閣下 自伝 笹本恒子の97年




    • 作者: 笹本 恒子

    • 出版社: 毎日新聞社

    • 発売日: 2012/5/25


    昨日読了。
    日本における女性報道写真家の第一号と言われる笹本恒子さんの自伝だ。

    笹本さんに関する一切の事前知識なく読んだのだけれど、事前になんとなく予想していた展開とはかなり異なる内容だった。良くも悪くもこちらの期待を裏切ってくるところがあって、自伝としての評価は少々難しい。
    ただ、これだけは書いておきたい。本書は、時系列に沿った6章の構成なのだけれど、実は最終章である6章が最も面白かった。これは、自伝としては非常に珍しいことなのかなと思う。通常、相応の社会的功績を成した人間達の自伝となれば、読む側の心を最も揺すぶるのは、溢れんばかりのエネルギーに満ちた全盛期、円熟期となるのが一般的だろう。それが人生のいつなのか、というのは当然ながら人それぞれではあるけれど、多いのは20代~40代、せいぜい50代までといったところではないだろうか。ところが本書の醍醐味は、少なくとも俺にとってはそこじゃない。6章の冒頭は、昭和60(1985)年の秋から始まる。1914年生まれの笹本さんは、当時71歳だ。そこから始まる6章が最も印象的だったのだから、本当に人生というのは奥深いものなのだと思わずにはいられない。今、97歳になってなお現役として生きる笹本さん。俺自身は、本書で綴られている以上には笹本さんの今の活動を知らないけれど、それでも十分に本書から伝わってくる。彼女のエネルギーは、衰えるどころか、むしろ新たな輝きを備えて、今も全身から放たれているのだろうと。

    率直な感想として、彼女が女性報道写真家の第一号として世に出ることになるまでの一連を読んでいると、やや拍子抜けしてしまうところもある。カメラの扱い方など全く知らない状態で、手渡されたライカにフィルムを装填することさえ1人では出来ないような状態で、彼女のカメラマンとしてのキャリアはスタートする。「写真に人生の全てを賭けるつもりで、『人差し指も疲れたら動かなくなるんだ』って思うくらいに、シャッターを切り続けました」みたいな、ある種の悲壮感というのかな、そういった比較的想像しやすいストーリーなどは全くない。まあ、例えばの話だけれど。
    報道写真家として最前線で活動をされていた頃のエピソードは、意外に淡々と綴られている。当時の社会において、女性の笹本さんがこれほど幅広く精力的に活動を展開されていたというのは凄いことで、その行動力には驚くばかりだけれど、本書を読んでいると、撮影にまつわる様々なエピソードが、ある意味では「なんてことのない」ものであるように書かれていて、その凄さを見過ごしてしまいそうになる。

    きっとそれは、彼女にとって過去を誇ることが本意ではないからなのだろう。
    97歳。今も現役。年齢は関係ない。
    色々な経緯があって、写真家としては、そのキャリアの過程で20年近くもの時間を失っている笹本さんだからこそ、今なお、今に集中できるのかもしれない。
    だからこそ、彼女の自伝は最終章が最も面白い。
    そして、その事実こそが、本書を読んで何より素晴らしいと感じたことだった。

    Friday, July 20, 2012

    『スシロー 世界を握る』


    スシロー 世界を握る




    • 作者: 『フードビズ』編集部

    • 出版社: エフビー

    • 発売日: 2012/7/11


    横浜に引っ越してきて約5ヶ月。3歳になったハンナが週末に遊べる場所を色々と探しているのだけれど、たまに「アメイジングワールド」に連れていくことがある。ショッピングセンター「ルララこうほく」の4Fにあるアミューズメントパークで、雨の日なんかは結構助かる楽しい場所なのだけど、そのすぐ正面にあるのがスシローだ。
    ただ実は、一度も入ったことがない。
    理由は簡単で、いつも行列がものすごいからだ。

    本書はそんなスシローの軌跡を辿った1冊だ。フードビズ編集部がキーマンとなる経営陣の何人かに対して行ったインタビューを軸として、スシローを外食産業のメインプレーヤーに押し上げた要因を、時系列に沿って追っていく。
    これがなかなか面白い。現在、俺自身が勤めている会社とは業界構造も、企業規模も違うので、一概に比較はできないし、安易な比較をすべきでもないけれど、それでもやはり面白い。日常の業務とは違う観点で、ビジネスというものを考える良いきっかけの1つになるのは間違いない。

    例えば、スシローの強みは何か。これに対する彼らの答えは、ただ一言。「すしです」。これほどシンプルで力強く言い切れるのは、単純に凄いと思う。彼らは100円寿司チェーンだけれど、「コスパです」みたいな卑屈なことは言わない。純粋に、お客様に出すものへのこだわりが徹底されている。これは、「うまい寿司をとにかく出して、お客様に喜んでもらいたい一心だった」という創業者の清水さんの思いが大きいのかもしれない。清水さんが大阪で始めた立ち寿司がスシローの原点で、当初からチェーン展開をベースにスタートした他社とは出自が異なることも影響しているのだろう。「うまいすしを、腹一杯。うまいすしで、心も一杯。」という魅力的な経営理念にも、スシローにかける思いが見えてくる。

    回転寿司チェーンというのは、店舗投資が一般的に1億5千万円以上と高く、また原価率も40%以上はかけなければ勝負にならないそうだ。つまり、構造的に利益率を取れないため、売上高を稼ぐことで成立するモデルということだ。逆に言えば、売上が鈍化するとすぐに苦境に立たされる訳で、なかなかしんどいモデルだと思う。
    それでも、軸はぶれない。「すし自体の魅力」という原点が明確なので、例えば売上を追いかけて値引きに走ることもなければ(一時期は90円セールを展開したこともあるそうだが、それは経営の過渡期における判断で、もうしないそうだ)、利益追求のために、品質を犠牲にしてまで原価率を下げることもない。ちなみに原価率は、50%前後を常にキープしているそうだ。

    経営陣の構成も、非常に興味深い。
    スシローは、2007年にユニゾン・キャピタルとの戦略的業務提携を結んで、ユニゾンから経営メンバーが派遣される。この時にスシローに出向でやってきたのが加藤さんという現専務で、このヒトがまた凄い。ドイチェ証券、ユニゾンと渡り歩いたエリート金融マンなのだけれど、スシローに経営者の1人として出向すると、「経営の中枢が外部の出向者というのは良くない」と考え、自ら転籍を申し出る。立ち寿司から始まったスシローの当時の社員構成を考えれば、潜在的にも顕在的にも、それなりの反発はあっただろうというのは想像に難くない。それでも加藤さんの本気は、時間の経過と共に組織へのポジティブ・フィードバックを巻き起こしていく。そして、加藤さん自身の人脈によって、多様なバックボーンを持った外部の優秀な人材が次々と集結してきて、結果としてスシローの経営は、外食産業に閉じた視点に留まらない、新たなエンジンを備えていくことになる。
    このあたりの展開も、読んでいて非常に面白い。ビジネスモデルとか戦略論とか、経営手法とかを云々する以前に、「やはりヒトだよなあ」と思わずにはいられない。ちなみに加藤さんは、「端的に言って、外食業は人ビジネス、店長ビジネスだ」と語っている。小売の場合、顧客との接点はレジであり、実は店員がコンタクトする時には、既に顧客にとっての「商品価値」は決まってしまっている。しかし外食産業では、食材の調理、接客といった人間の行為そのものが、付加価値となっていく。そこが面白いのだという捉え方は、ある意味でとても新鮮だった。

    一度、行ってみないとね。
    食事のために並ぶのは嫌いなので、できれば混まない時間帯で。

    Friday, July 13, 2012

    『三日月とクロワッサン』


    三日月とクロワッサン




    • 作者: 須藤 靖

    • 出版社: 毎日新聞社

    • 発売日: 2012/2/11


    本日読了。
    宇宙物理学者の須藤靖さんによるエッセイ集。
    書店や図書館では科学図書のコーナーに収蔵されることも多いようだが、著者自身も書いている通り、全くもってジャンル選択ミスだ。平たく言ってしまえば、宇宙物理学者ゆえのウィットが存分に散りばめられた痛快エッセイといったところだ。

    それにしても、まあ面白い。
    本書を読んでみて何より思うのは、「どうでもいいことを、マジメに(笑)考え込んでみる」ことの愉しさだ。何かの目的のために、あるいは打算のために考えるのではなくて、ほんとにどうでもいいことを、とにかく考えてみる。これほど愉しいことはないよなあと、つくづく思ってしまう。
    本書は、そんな話のオンパレードだ。幾つか例を挙げてみよう。「せんべい」と「おかき」の違いは何か。日本に滞在していたアメリカ人の特別研究員の見事な質問、「インターネットの接続速度が速くてサクサクと検索できた、とか使っている人がいますね。これは食べ物のサクサクと同じ意味ですか」(相当レベルが高い質問じゃないか。)人生の幸せを相対論的微積分方程式で表現できるか。クロワッサンとは三日月であり、三日月とは新月から三日目の月(向かって右側が輝いた状態)である以上、トルコの国旗に描かれた月(アルファベットの「C」の型)はデクロワッサンではないか。
    そういうどうでもいいことをユーモラスかつマジメに考えて、かつ出版してしまう宇宙物理学者(東大大学院教授)。個人的には、とても好きな感じだったりする。

    ちなみに俺も、ちょっと似たような趣味がある。どうでもいいことを考えて遊ぶクセというのかな。「もし人差し指の先で匂いを嗅ぐことができたならば、それは定義上、鼻なのか」とかね。まあ、さほど突き詰めないけど。

    読んでいてとてもラクでありながら、とても知性的な営みにみちた1冊。
    なかなかオススメです。

    Thursday, July 12, 2012

    『[完全版] 下山事件 最後の証言』


    下山事件完全版―最後の証言 (祥伝社文庫 し 8-3)




    • 作者: 柴田 哲孝、undefined、柴田 哲孝のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: 祥伝社 (2007/07)

    • 発売日: 2007/07


    矢板玄。
    戦後、東京都中央区室町のライカビルを本拠地に、貿易を生業とした「亜細亜産業」の総帥だった男。歴史の表舞台に出ることなく、戦後日本の激動の渦中を強かに渡り抜いた時代の証人。いや、むしろその人生こそが「時代」であったというような、本物の傑物。その矢板玄と、1人対峙する。
    「貴様、何者だ」
    次の瞬間、矢板は左手に握った日本刀を振り下ろし、眼前に坐る男の顔の前で止めた。
    「もう一度、訊く。貴様、何者だ」
    矢板と対峙していたのは、柴田哲孝。本書の著者であり、戦後史最大の謎とされる「下山事件」の真相に迫る宿命を負ったジャーナリスト。彼は、鬼の形相で威圧する矢板を前に、動くことができなかった。
    しかし次の瞬間、本人でさえ信じられない言葉が口を衝く。
    「いい刀ですね」

    下山事件。昭和24年7月5日、突如として消息不明となった初代国鉄総裁の下山定則が、翌7月6日未明に常磐線の北千住~綾瀬間の線路上で轢死体となって発見された事件。当時の国鉄は10万人規模の人員整理の渦中にあり、下山は失踪前日の7月4日、第一次人員整理者約3万人の名簿を公表していた。労働組合との極限の交渉。労働左派の憤怒。GHQによる占領政策と反共工作。日本政府の政治的思惑。様々な時代背景が交錯する中、警視庁捜査一課は早々に自殺説に傾倒。捜査二課は他殺説の線で捜査を推し進めようとするが、昭和25年7月、警視庁は捜査官の大半を他署へ転出させる。この瞬間、下山事件はその真相が解明されることなく、事実上迷宮入りすることになった。

    下山事件が起きた当時の戦後日本史には、様々な伏流がある。その1つが、当時の日本を形成したといっても過言ではない人間達が頻繁に訪れたサロン的側面を持つ貿易会社、亜細亜産業。本書は、その亜細亜産業で重要な任務を果たした人間を祖父に持つ著者が、下山事件の全貌を追った迫真のノンフィクションだ。

    断言してもいい。間違いなく面白い。
    勿論、下山事件の「事件性」もある。本書は他殺説に拠っているが、事実として、今なおその真相は明らかになっていない。幾多の謀略、プロパガンダを丁寧に読み解きながら、小さな矛盾と大きな潮流の狭間で揺れ動く推理の過程は、まさしく「小説より奇なり」と言っていい。
    でも、本書の魅力はそれだけではない。
    尊敬する祖父、柴田宏は事件に関与していたのか。著者の純粋な出発点はそれだった。しかし著者が本書の筆を置いた時、そこに描かれていたのは、著者の当初の意図を凌駕する壮大なものだった。
    それはつまり、日本国そのもの。戦後日本の源流だ。吉田茂。佐藤栄作。白洲次郎。三浦儀一。児玉誉士夫。田中清玄。沢田美喜。ウィロビー。キャノン。シャグノン。そして勿論、矢板玄。そういう傑物達の生きた時代が、錯綜し複雑に織り成された時代の糸が、本書には綴られている。
    それを可能にしたのは、「いい刀ですね」と言ってのけた著者の胆力だ。

    素晴らしい1冊です。

    Saturday, July 07, 2012

    『金融の本領』


    金融の本領




    • 作者: 澤上篤人

    • 出版社: 中央経済社

    • 発売日: 2012/6/27


    さて、遅くなってしまったけれど先日読了。
    さわかみ投信会長の澤上篤人さんの新著だ。前半はインタビュー形式、後半は澤上さん自身による著述となっている。一般的に、対談形式だと中身は薄くなりがちだけれど、澤上さんの人間性が垣間見えて、なかなか興味深いものになっている。

    まず、本書は「帯」がいい。
    居酒屋で、1人ビールの注がれたグラスを傾ける。レトロな店内の壁に貼られた「ホッピー」の文字。ちょっとオレンジがかった写真の色調も抜群だ。澤上篤人という名前から想像される雰囲気とのギャップもあって、思わず手に取ってしまう。

    澤上さんといえば、長期投資。10年先を読み、時代や社会の大きなトレンドを見極めながら、大胆かつ緻密に投資を行っていくスタイルが有名だ。本書の中で幾つかの具体例が引かれているが、澤上さんが拠って立つ基本的な戦略、あるいは思考の組み立て方といったものが非常によく分かる。
    例えば、かつて鉄鋼会社が斜陽産業と言われていた頃に、澤上さんは鉄鋼株を大量購入したそうだ。鉄鋼業界は最高度の資本集約産業であり、キーとなるのは資本力と技術力だ。日本企業は、資本力はともかく圧倒的な技術力を持っている。それでも韓国勢、中国勢に負けるのは、間接部門に余計な人件費をかけすぎていたからだ。鉄は人々の生活に必須の素材であり、10年後も間違いなく必須であり続けるのだから、日本企業がムダのカットに向かい始めれば、必ずその技術力が生きる時が来る。その時こそ応援した方がいい。いや、応援させてもらいたい。そういった判断をして、鉄鋼メーカーの経営の舵が切り替わってきたと感じた頃を見計らって大胆に投資する。こういう思考こそが長期投資の基本なのだと。
    あるいは、自動車株に対する投資判断も興味深い。最近の日本では「若者のクルマ離れ」が進んでいるというが、人類がクルマを手放すことはないだろう。そうやって世界を見渡すと、例えば現在のアメリカでは、約2億7,000万台の車が走っているそうだ。国土の広いアメリカでは、車がなければ暮らせない。彼らは日本のサンデードライバーとは異なり、毎日運転しているのだから、車の買い替えは生活の一部だ。車の耐用年数を長くみて15~16年とすると、本来は年間1,700万台くらいの買い替え需要があっていいはずだ。にもかかわらず、サブプライム危機以降のここ4年ほどは、新車販売台数が1,200万台程度に落ち込んでいる。とすると、この4年近く我慢してきたアメリカ人の買い替えニーズはどこかで戻ってくるだろう。本来の1,700万台レベルに戻ったとすれば、その時は前年比40%近い伸びになってくる、ということになる。そういった推論を積み上げて、株価低迷期に自動車株を買い仕込んでおく。実際には、もっと精緻に評価しているだろうと思うけれど、ファンダメンタル分析やテクニカル分析のような、ある種のどうでもいいスタンスとは明確に一線を画していることが、十分に理解できる。そしてそのスタンスは、基本的にとても好感の持てるものだ、というのが俺の素直な思いだ。

    そういえば、CIAのような諜報機関においても、利用する情報の90%以上は公開情報だという話を、どこかで聞いたことがある。(佐藤優の著作だったかも。)
    結局、命運を分けるのは「情報をいかに使うか」ということなのだと思う。誰もが手の届くところにある情報に、大きな視点からのフレーバーを与えて、多少大袈裟に言えば、自らの「世界観」を作り上げていく。そのプロセスこそが、きっと重要なんだ。

    良い本です。「金融の本領」、それは利益の最大化ではないのだという矜持が、肌感覚を持って伝わってきます。

    Sunday, July 01, 2012

    『武器としての交渉思考』


    武器としての交渉思考 (星海社新書)




    • 作者: 瀧本 哲史、undefined、瀧本 哲史のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: 講談社

    • 発売日: 2012/6/26


    瀧本哲史さんといえば、言わずと知れた時の人。もはやその著者名だけで「あ、釣られましたか」という視線を感じてしまうような存在になってきている。
    その瀧本さんの新著。『僕は君たちに武器を配りたい』、『武器としての決断思考』に続く<武器>シリーズの3作目として刊行されたのは、交渉というものの考え方と基礎的なスキルを非常に分かりやすくまとめた1冊だ。

    まず、最初に思ったこと。
    本書は若手営業研修の基礎テキストとして良いかもしれない。
    理由はシンプルで、瀧本さんの文章には「読ませる」ものがあるからだ。
    交渉の基礎として紹介されているコンテンツには、誤解を恐れずに書いてしまうと、特別目新しいものがある訳ではない。入社当時に配布された『ハーバード流交渉術』(知的生きかた文庫)の焼き直しに近い部分もある。ミカンの実と皮を分け合うエピソードなんかは、こちらがオリジナルだろう。BATNA(バトナ)やアンカリングといった交渉の基本概念も、どちらかというと教科書的なものというのかな、要するに「基本中の基本」といったところだ。これは、瀧本さんの問題ではなくて、おそらく「交渉」という世界における基本には、さほどバリエーションがない、ということなのかもしれない。より戦術的なレベルでは、もう様々あるのだろうけれど。

    ただ、それでもいい。やっぱり営業研修に最適かもしれない。
    交渉力というものを考えた時に、BATNA(バトナ)を「知っている」だけでは意味がなく、その考え方を受け入れて、きちんと消化できていることの方が大切だ。そう考えた時に、瀧本さんのテキストは、たぶん(特に)若手にハマる。『ハーバード流交渉術』を読んでも、「ミカンの皮と実って、まあそんなケースないよね」と冷めてしまうような人に対しても、読ませるものがあると思うんだ。
    様々なレイヤーで、日常的に行われている「交渉」という営みを、視野狭窄に陥ることなく、それでいて本質を分かりやすく整理して、かつ読者の心に沁みるように書く、というのはそう簡単なことじゃない。交渉のプロを自認する人達でさえ、自らの営みをこれほど伝わりやすい形で言語化できる人は極めて少ないだろう。

    ちなみに、もうひとつ思ったことを。
    本書の内容は、まさに俺の日常です。俺の仕事そのものと言っていい。
    俺がすべきことで、かつ十分に出来ていないことが綴られています。
    基本を読み返して得るものがない日なんて、きっと来ないんだよね。
    10年間も営業してるのに、今でもロクに出来ないんだから(苦笑)。

    『勉強上手』


    勉強上手




    • 作者: 成毛 眞

    • 出版社: 幻冬舎

    • 発売日: 2012/6/28


    勉強本は、いい加減もう卒業でいいかなと思っている。
    最近はビジネスパーソンの間でも勉強ブームで、書店のビジネス書コーナーには、もう辟易してしまうくらいに勉強本が乱立しているのだけれど、勉強本を読む時間を利用して勉強した方がいい。それに、そもそも「勉強」という言葉そのものが、ビジネスパーソンの日常と感覚的にあまりマッチしないよなあと思っていた。
    そうしたら、本書に全く同じことが書いてあった。
    ちなみに本書を購入したのは、勉強本を探していたからではなくて、ただ成毛眞さんの著作は原則として購入している、というだけだ。成毛眞さんはご存知の通り、マイクロソフト日本法人の元社長で、幾つかの著作が刊行されているのだけれど、基本的にどれも痛快で面白い。肩肘張って読むタイプの本ではなくて、どちらかというと娯楽として読む類のものを書かれている。

    本書の中で、幾つかの勉強本が紹介されているのだけれど、それぞれに対する成毛さんの評価がまた秀逸だ。本田直之『レバレッジ勉強法』に対しては、「成功者はこんな勉強法は絶対にしない」と断言している。そりゃそうだ。俺は成功者でも何でもないけれど、それでもきっと成毛さんの言う通りだろうと思う。ビジネス書をこつこつ読んで、通信教育に通って資格を取って世界を変えた大物なんて、聞いたこともない。小山龍介『STUDY HUCKS!』に対しては、「この本で紹介している方法をすべて試したら、コストはハンパない」といって、ネタとして愉しんでいる。iPod、ノイズキャンセリング機能付ヘッドホン、ICレコーダー、モバイルパソコン、モレスキン、はさみとのり、100円ノートというのが「最強の7つ道具」なのだそうだ。その他、本書では、「勉強にきくハーブティー」、「黄色いものを周りに置く」、「お経を聞いて集中する」などといったTipsまで紹介されているらしいので、ある意味興味深いのは間違いない。

    本題から逸れてしまったが、成毛さんの主張は(一見すると)非常に尖ったものなので(個人的には至極真っ当なものだと思うけれど)、馴染まない人も少なくないような気はする。ただ、この程度のスタンスで、肩肘張らずに「勉強」したいものです。そして当面は、色々と片っ端から「本を読む」でいいかなと。

    Friday, June 01, 2012

    受け入れるということ


    この子はこの子でいいんだ。私は私でいいんだ―これで、子どもの未来が輝く




    • 作者: 明橋 大二、undefined、明橋 大二のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: 1万年堂出版

    • 発売日: 2004/12/3


    4人家族になってちょうど1ヶ月。
    育児の負担がどうしてもパートナーに寄ってしまって、肉体的にも精神的にも、ちょっとしんどい時期なのだけれど、なかなか力になれない今日この頃。
    悩みも多くて苦しんでいるので、心を楽にしてあげられる本がないかなあと探していたら、検索で引っかかったのがこの本だった。涙を流して読んだという母親の感想をネットで読んで、母親を責めないスタンスで書かれているというのがいいかなと思って、先日買っておいた。
    そんな本を読んでみて、思ったこと。
    要するに、これを読んだ方がいいのは俺の方だった。

    当事者として子供と接するのと、その姿を外から眺めているのでは、見える景色も感じ方も全く違ってくる。基本的に俺は、子供を叱らないようにしている(つもりな)のだけれど、週末の日曜日にハンナを連れて動物園に行って、いきなり最初の象で30分も動かなくて、「次に行こうよ」と言っても「イヤ、次は行かない」なんてことになると、疲れてきてちょっとイライラして。子供みたいにすっと気持ちの切り替えができないと、表情が硬いままになってしまったりもして。でも、これが他人の子供だったならば、きっと気楽に「いいよー」とか言って、ベンチでも探して寝転がっていられると思う。(実際、幼稚園のイベントなんかで、他所の子を遊ばせるのは相当気楽でかなり楽しい。)でも、当事者には当事者のしんどさと、悩みがあって。

    子供を厳しく叱りつける親がいたとする。
    「そんなふうに叱り飛ばしては、子供がかわいそうだ」とか、「もっと愛情をもって子供と接してあげるべきだ」とか言う前に、そうならざるを得なかった母親の背景を、まず受け入れてあげることが大切だ。「悩みながら、肉体的にも辛い中、今日まで日々お子さんを育ててくださったんですね」と、まずは今という瞬間まで育児を担ってきた女性への感謝からスタートしたらいい、と著者は言う。

    そういうメッセージをもらっただけで、この本を読んだ意味があったかな。
    否定せず、受け入れるということを教えてくれた訳だから。

    Friday, May 25, 2012

    『(日本人)』


    (日本人)




    • 作者: 橘 玲、undefined、橘 玲のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: 幻冬舎

    • 発売日: 2012/5/11


    昨日読了。面白かった。
    橘玲というとやはり『マネーロンダリング』の印象が強く、「金融を語ってナンボの作家」といった辛口評価も多いようだけれど、俺は良い本だと思う。

    論旨をざっとまとめると、以下のポイントに集約される。

    ・日本人は、日本人論を語る時に「日本人の特殊性」を前提にしているが、そこで語られる特徴の大半は、アジア圏で広く見られるものだ。また、例えば和を重んじる文化などは農耕社会における必然であり、日本の特殊性とは言えない。
    ・日本社会は「空気(世間=ムラ社会)」と「水(世俗性)」で構成されるが、日本人を世界の中で決定的に特徴づけるのは、「空気」ではなく「水」の方だ。実際、日本人は世界的に見ても極めて個人主義的で、世俗的だ。(世俗的とはつまり、損得勘定でモノを考えるということだ。)
    ・日本における「イエ」の束縛とは、それがなければ共同体としての一体感を維持できないほどに、日本が個人主義的な無縁社会だからだ。
    ・グローバル社会におけるデファクトはグローバル・スタンダードであり、グローバル空間においては、ローカルルールはグローバル・スタンダードに対抗できない。
    ・グローバル・スタンダードとはリベラル・デモクラシーであり、それはつまり自由と平等に絶対の正義を求める思想だ。(ただし、それぞれの重みづけに応じて複数の立場が存在する。)
    ・日本人、日本社会は今、周辺からグローバル・スタンダードの浸食を受けている。中央からではなく、周辺から徐々に浸食されているのは、本質的にローカルなイエ社会であり、グローバル・スタンダードの本質に沿った統治が(国家・企業といったあらゆるレイヤーにおいて)中央に浸透していないからだ。これが、今の日本の閉塞感へと繋がっている。

    取り扱われているトピックがやや広すぎて、思索の全体像を追いかけづらい嫌いもあるけれど、「一般的な印象として」語られる日本というものを一旦措いて、改めて日本人、日本社会を見つめ直してみる上で、なかなか新鮮な導きを与えてくれる1冊になっている。また、グローバル社会というものシンプルに分かりやすく整理する、という点でも悪くないと思う。やや正確性に欠けるとしても。

    本書の場合、その結論は重要じゃない。
    過程こそが重要な1冊だと思います。

    Sunday, May 13, 2012

    本質から本質に向かう発想


    早稲田大学中沢塾の「リーダーシップ工学」




    • 作者: 中沢 弘、undefined、中沢 弘のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: 講談社 (2002/10)

    • 発売日: 2002/10


    早稲田大学名誉教授で、エンジニアのためのリーダーシップ教育「中沢塾」を主催されている中沢弘さんの著作。「リーダーシップ工学」という表題の通り、従来は文系的なアプローチで語られてきたリーダーシップというものを、工学的手法をベースに再定義すると共に、そのあり方と具体的方法論に踏み込んだ内容で、非常に面白かった。エンジニアではないけれど、エンジニアと共に日々仕事をしていることもあって、アプローチ自体も非常に馴染みやすいものだった。

    やはりコアとなるのは「メタコンセプト発想法」、そして「トータル設計」だ。これに「人間中心(Human-Oriented)」を加えると、ほぼ中沢さんの骨子になってくる。
    メタコンセプト発想法とは、ある課題に対して、同一レベルでの対症療法的な解決を考えるのではなく、その課題の背景にある真の目的(メタコンセプト)を導出して、それに対するアイデアを幅広く出していくアプローチだ。これは非常に有益で、日常的にメタレベルで考える癖をつけていくのは、とても大切なことだと思う。勿論、簡単なことではないけれど。
    トータル設計とは、何か新たな機能的要求が与えられた時に、既存システムをベースとした一部修正や機能追加で対応する(付加設計)のでも、既存の複数システムを組み合わせて新たな機能要求を充足する(組み合わせ設計)のでも、また機能的要求は一切変更せずに、更なる最適化だけを目指す(改良設計)でもなくて、(従来の機能要求も併せて)全てをゼロベースで考えて、全体最適化を目指すアプローチだ。これも非常に大切な考え方だと思う。エンジニアリングの本来の醍醐味というのは、こういうところにあるのだろう。(俺自身は、残念ながらエンジニアではないけれど。)

    多くの場合、既存リソースという制約に縛られた対症療法的な発想に基づいて、既存リソースという制約の中で実現できる対症療法的な設計を行うんだよね。そしてそれは、リソースへの投資を行うのがお客様であるという点で、ある意味では仕方ないことでもあって。トータル設計の価値をお客様に認めていただき、リソースへの投資、そして(リスクを含めた)チャレンジの価値と意義を合意できなければ、青写真はいつまで経っても青写真のままなのだから。
    でも、一方で、やはりそうじゃない、という心意気は持ち続けたい。
    そういう発想のベースを、自分自身の中にきちんと根付かせていきたい。
    日々の仕事で頭をフル稼働できているかというと、まだ足りないところが多いなあと(ちょうど今日なんかも)思うのだけれど、フル稼働させる時のスタート地点と、目指すゴールをどうセットするか。

    いつだって、本質から考える。
    本質の方向に向かって、考える。
    まあそういうことなのかなと、思います。難しいけど。

    『日本の銀行に未来はあるのか』


    日本の銀行に未来はあるのか




    • 作者: 津田 倫男

    • 出版社: 洋泉社

    • 発売日: 2012/4/24


    津田倫男さんの著作を読むのは、気づけばこれで3冊目になるのだけれど、正直に言うとちょっと微妙な感じがしている。Wikiによると、三和銀行(現:三菱東京UFJ銀行)に入行後、社費留学生としてスタンフォード大学に留学して1985年にMBAを取得。帰国後、1994年にケミカルバンク(JPモルガン・チェースの前身)、1997年にソシエテ・ジェネラル銀行、2000年(平成12年)にデル・ベンチャーズに転職し、その後は独立とのことで、第一線のバンカーとして活躍してこられた方なのだと思うけれど、その論考は読者の期待よりもちょっと手前すぎるような印象だ。

    日本の銀行の置かれた環境は厳しい。
    地方銀行のレゾンデートルが定義しづらくなっている。

    例えばそういうことは、本書を待たずとも、どこでも言われている。
    地方銀行自身も、危機意識(少なくとも漠たる不安感)は当然抱えている。
    問題は、それが構造要因(例えば人口減少という社会構造、資金ニーズの低迷というマクロ経済構造、リスク投資に消極的な文化的構造、色のないカネを横並びで扱ってきた業界構造)に基づくトレンドだということであり、商品性による差異化がとても難しい銀行にとって、構造を打開するシナリオが思うように見出だせないということだ。それでも、明日も明後日も、変わらず銀行は店を開く。

    じゃあ、どうすればいいんですか。
    読者が期待するのは、それに対する著者の仮説なんだけどね。
    率直に言って、ここが殆ど綴られていないのが、ちょっと残念だ。

    Sunday, April 22, 2012

    最近の読書

    さて、ここしばらく書けていなかったけれど、この2週間で読んだ本を。



    熊とワルツを - リスクを愉しむプロジェクト管理




    • 作者: トム・デマルコ、undefined、トム・デマルコのAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら、ティモシー・リスター、undefined、ティモシー・リスターのAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら、伊豆原 弓

    • 出版社: 日経BP社

    • 発売日: 2003/12/23


    ソフトウェア・エンジニアリングにおけるリスク管理を綴った好著。
    基本的な事柄が、とてもよく整理されている。
    ただ、冒頭の一言の重要性は決して忘れてはいけない。
    「リスクのないプロジェクトには手をつけるな」
    リスクのないプロジェクトからは、必ずといっていいほど、何も得るものがない。
    ちなみに本書は、個人的には思い出深い1冊になった。まさに読了した日、思いもよらない外部リスク要因で、プロジェクトが停滞したからだ。


    模倣の経営学―偉大なる会社はマネから生まれる―




    • 作者: 井上達彦

    • 出版社: 日経BP社

    • 発売日: 2012/3/8


    これも好著。経営における模倣の重要性を綴った1冊。
    模倣というとやや語弊があり、より正確には「リファレンス」ということかなと思う。反面教師としてのリファレンスを含めて、「既にどこかにあるもの」をいかに消化して、自らの置かれた環境にカスタマイズして応用していくか。
    ただ一点、素直に思ったことがある。
    本書に登場する多くの経営者が成功したのは、模倣のせいじゃない。
    他人には模倣できないほどの情熱があったからだ。その先の「モデルの模倣」は、情熱から導かれた必然的帰結にすぎないとさえ思えてしまう。
    本質的なポイントは、模倣そのものじゃない。時代を造った模倣者たちに匹敵するだけの熱を、自らが持っているかどうかだ。


    広辞苑の中の掘り出し日本語




    • 作者: 永江 朗、寄藤 文平

    • 出版社: バジリコ

    • 発売日: 2011/6/28


    本書の中身とは関係ないが、バジリコという出版社があるとは知らなかった。
    「本は引くもの、辞書は読むもの」と語る著者が、広辞苑を読み進めながら出会った幾つもの知らない言葉にエッセイを寄せたものなのだけれど、確かに知らない言葉が多々あって興味深い。ただ、本書そのものは辞書ではなく、あくまで本なので、遠慮なく引かせていただいた。エッセイ自体は、さほどでもないかな。


    コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)




    • 作者: 押井 守

    • 出版社: 幻冬舎

    • 発売日: 2012/3/30


    アニメーション作家、押井守による新書。表題に引かれて購入したのだけれど、綴られているのはコミュニケーション論というよりも、国防と原子力に対する私的論考といった感じだった。表題は、やや大きく出すぎている気がするね。
    ただ、幾つかの点で、間違いなく本質を突いた発言をしている。
    例えば冒頭、こんなことを書いている。
    「被災地を尻目に日常に戻ることは、悪いことではない。問題なのは、このレベルの災害を目の前にしてもなお、”国民が同じ体験を共有している”とは言えない状態 ― つまりある種のコミュニケーション不全に陥っているということに、あまりに無自覚であることだ。(中略)まず、我々が前提としてしっかり認識しなければならないのは、そもそも日本人というのは同じ意識を持って暮らすことなど根本的にはできないということだ。」
    これは、なかなか言えない。そして、あの日名古屋にいた俺は、どこかでそう思う。東海地区以西の住民にとって、本質的には「体験の共有」は極めて難しいと。共有できないと言いたい訳じゃない。心を痛めていないとか、そういうことじゃない。でも、哀しい事実かもしれないけれど、東海以西という境界は、きっとある。あり得てしまっている。押井さんの主張は、その事実に対する是非じゃない。ただ、「その事実を起点にせよ」というだけだ。そしてそれは、きっと正しいスタンスだ。

    Saturday, March 31, 2012

    『コストマネジメント思考法』


    コストマネジメント思考法 ―どんな状況でも利益を生み出す




    • 作者: 栗谷 仁

    • 出版社: 東洋経済新報社

    • 発売日: 2010/10/27


    昨日の夕方、なんとなく晴れない気持ちで箱崎を後にして、その足で寄ったブックファーストで買った1冊。コストマネジメントは、今、最も必要なことだから。
    この分野ではよく登場してくるA.T.カーニーのパートナー、栗谷氏による著作。
    率直な感想としては、「まあ、そりゃそうだよね」といった感じかな。
    コストに対するアプローチの最も基本的な考え方を整理したもので、新しい発見を求めて読むのではなくて、必ずしも体系化されていない断片的知識を、一本の糸にするために読むのが妥当かなと思います。

    ざっとポイントをまとめてみよう。
    コストマネジメントには、大きくは「必要性の判断」と「適正化」の2つの軸がある。
    まず最初に考えるべきは、必要性。「そもそも、そのコストは必要なのか」を再考し、不必要と判断されるものはやめていく。この際のアプローチにも2つあり、1つは「最適化」だ。例えば、過剰品質の追求に投下されているコストを最適化して、適正な品質水準に持っていくのがこのアプローチだ。もう1つは「変動化」で、固定費としてコストを負担すべきかを見極めて、モノによっては変動費へと変えていく。
    ここまでで必要性が認められたコストについては、次に「適正化」の余地を探っていくことになる。必要なコストだとして、「今の水準は適正なのか」を分析・評価することでムダを切り出していくのだけれど、この際の手法として「集約」「分解」「統合」の3つが挙げられている。例えば、ボリューム・ディスカウントは典型的な「集約」の効果だ。「分解」とは、端的に言ってしまえば丼勘定を排除し、真のコスト・ドライバーを炙り出すことで適正化を推進する手法。「統合」では、例えば業務プロセスの統合や、外部(サプライヤー・顧客)までを含めた一連のフローを統合的に考えることで、全体としての効率化を狙っていくことになる。

    そして、耳の痛い言葉が。
    「前提として透明化が必要である。」
    「長年の貸し借りも透明化し、清算することも必要になる。」
    「単価・数量(および、購入物ならばサプライヤー、人件費ならば個人別生産性)というミクロレベルの把握なしには、コストマネジメントは不可能である。」

    そう。だからこそ、言いたい訳です。
    本書のレベルでは、おそらくコスト削減などままならないと。
    本当は重要なのは、例えば「実績」や「生産性」の捕捉というのが言葉ほどに簡単ではないという厳然たる事実であり、その現実を前にして、いかに歩みを進めるか、ということなのだから。

    Friday, March 30, 2012

    『今この世界を生きているあなたのためのサイエンス〈2〉』


    今この世界を生きているあなたのためのサイエンス〈2〉




    • 作者: リチャード・A. ムラー、Richard A. Muller、二階堂 行彦

    • 出版社: 楽工社 (2010/09)

    • 発売日: 2010/09


    いやあ、面白いなあ。
    <1>も非常に興味深かったけれど、<2>もやはり良いです。
    それにしても、基礎的な科学の素養がなさすぎるね・・・。
    <2>のテーマは、「第四講 宇宙空間の利用」と「第五講 地球温暖化」の2つなのだけれど、特に第四講が面白い。3種類の衛星軌道(地球低軌道(LEO)・静止軌道(GEO)・地球中高度起動(MEO))とそれぞれの用途。偵察衛星やGPS衛星、あるいは気象衛星や放送衛星といったものが、なぜ、どの軌道に位置しているのか。例えばそんなことが、非常に分かりやすく書かれていて、「俺、何にも知らなかったなあ」とか思いながら、ふむふむと読み進めていった。宇宙空間から重力を測定するグレース衛星のことも知らなかった。この衛星によって、南極の氷が年間36立方マイルずつ減少していることが判明したり、ユカタン半島の埋没したチクシュルーブ・クレーター(恐竜を絶滅に追いやった小惑星の衝突跡)の地図が作成されたりしたそうだ。「世の中便利になったなあ」とかつぶやきながら、GPSの構造も知らずにiPhoneのマップ機能のお世話になっている場合じゃないな、と思ってみたりして。
    ちなみに、南極の氷の融解が温暖化と無関係であるというのも、その理由を聞くと至極当然の話だ。地球が温暖化すると海水の蒸発量が増大し、この増えた水蒸気が南極に達すると、雪になるからだ。(南極の大半の地域の気温は、氷点下よりもはるかに低い。)そもそも、2001年のIPCCの前の報告書では、「地球が温暖化しているならば、南極の氷の質量は増大する」と予想されていたそうだ。

    いい本です。
    <1>とセットで読むと、結構多くのことがすっと腹に落ちるかも。

    Thursday, March 29, 2012

    『愛語』


    愛語―よい言葉をかけて暮らそう 山田無文老師説話集




    • 作者: 山田 無文、undefined、山田 無文のAmazon著者ページを見る、検索結果、著者セントラルはこちら

    • 出版社: 禅文化研究所 (2005/10)

    • 発売日: 2005/10


    先日読了。山田無文老師という禅僧の説話集だ。
    体系立てて禅を語るようなものではなくて、80編近く収められたショートエッセイというか、小噺といったものを通じて、「禅という考え方」あるいは「禅という生き方」といったものを伝えてくれる構成になっている。
    率直な感想としては、面白かった。まあでも、これを「面白がって」読んでいるようでは、禅的な姿勢に程遠いのかもしれないけれど。

    本書を読んだ程度で禅を語るのは、きっと本書に失礼だ。
    ただ、なるほど興味深く感じたことは幾つもある。
    その中でも印象的だったのは、座っている時だけが禅ではない、ということ。こう書いてしまえば当然のことと感じるかもしれないけれど、「歩いておっても禅、しゃべっておっても禅、飯を食っておっても禅でなければならん」、あるいは「立っても坐っても歩いても、そこに定がなければならん。はたらきがなければ禅が意味をなさん」なんて言われてしまうと、それはまさに全方位的な意味で「生きる」ということそのものであり、ちょっと禅を味わう、なんて生半可なものではないのだということが、強烈なメッセージとして伝わってくる。そう、生き方そのものが問われている訳だ。

    禅僧には、正直なれそうもない。
    「禅を生きる」、「禅的に生きる」なんて、もう全然言えそうにない。
    それでも、本書に綴られた言葉が「愛語」であることは変わらない。
    禅を全うすることはできなかったとしても、そこには「気づきのきっかけ」が随所に転がっているのだから。心の持ち方を、ちょっと意識させてくれるきっかけがね。

    Sunday, March 25, 2012

    『学問のすゝめ』

    福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫)

    先日読了。
    『非常識な読書のすすめ』を書かれた清水克衛さんの推薦本。
    まあでも、あまりに有名すぎて推薦本という感じでもないけれど。
    そんな訳で、今更ながら、初めて読んでみた。

    まず、すごく読みやすい。明治期の書籍と構える必要はないかなと。
    そして、新しい。明治期に書かれたというのだから、福沢諭吉はやはり凄い。
    自分なりにその要諦を解釈すると、要するに「自立せよ」ということなのかなと思う。国家も、個人もね。そして、そのための手段として、表題の通り「学問」をせよと。
    ただ、「学問」による自立というシンプルなテーゼの中に込められたメッセージが、またシビアで、簡単に呑み込めるようなものではないんだ。
    例えば、謹慎勉強する学生を評して言う。それだけでは、ただ無頼生でないというだけだと。「謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず」と。

    昨今の「勉強ブーム」に本質がない気がするのは、こういうところかもしれない。
    まさしく列強の危機と向かい合った時代の著作故に、本当は学問を「すゝめ」ているなんて生半可なものではなかったのだろう。

    Tuesday, March 20, 2012

    『人を助けるすんごい仕組み』

    西條剛央『人を助けるすんごい仕組み』(ダイヤモンド社)

    前評判に違わず、素晴らしい1冊だった。
    東日本大震災という未曾有の悲劇に対して、自分は何も出来ていないという思いが胸に去来している、おそらくは少なくないであろう数の人達(俺自身を含む)に、そして今の自分の仕事において、どことなく方向感の定まらない思いを持っている人にこそ、読んでみてもらいたい。

    大学院の専任講師である西條さんは、仙台出身だった。
    あの震災で叔父が行方不明となり、南三陸町に入ると、そこで目の当たりにした現場の惨状に衝撃を受ける。「何かしなければ」との思いから、被災地が必要としている物資を、行政を通さずに、必要としている人達へと直接届ける支援のあり方を構想し、その小さな一歩目が次第に大きなうねりとなっていく。
    twitterやfacebookもフル活用して、糸井重里さんやGACKTさん、宮本亜門さんといった著名人とつながっていき、完全無償のボランティア支援に多くの賛同者が結集されていく。Amazonのウィッシュリストを活用して、必要な数の物資を、必要とする個々人に、ダイレクトに搬送する支援形態が確立され、家電製品や生活物資といった様々なものが、信じられないスピードとダイナミズムをもって、次々に被災地へと届けられていく。
    本当に凄い。なんというのかな、「自己増殖的な」運動の拡張といった感じで、本書を読み進めているだけでも、ふと冒頭に立ち戻ると、「いつの間に、ここまで展開が加速していたのか」というのが分からなくなってくる程に、ダイナミズムがある。
    思いだけでつながった、中心のない組織。いや、中心はあるのかもしれないけれど、構造であること自体に価値を置かない組織。そんなフレキシブルな形態から、数多くの被災地支援プロジェクトが沸き上がっていく。


    その根本にあるのは、とてもシンプルな発想。
    「構造構成主義」と西條さんは言うけれど、その極めて基本的なエッセンスだけでプロジェクトの根幹が形作られている。
    それは、「状況」と「目的」に常に立ち返る、ということ。
    何らかの「方法」ありきではなく、常に「状況」と「目的」から、機能する方法を導き出していく。既にどこかにある「方法」というのは、過去の経験をベースにしているけれど、今回の大震災のように、過去の経験では計れない未曾有の状況においては、経験ベースの「方法」が必ずしも機能しないのは必然だったのだ、と。

    約300ページの中に、西條さん自身によるそうした「発想の種」と、その種を育てた行動の軌跡とが、山ほど詰まっている。そのスタンスには、きっと多くの人が強烈な刺激を受けると思う。そしてきっとそれは、「震災への向き合い方」ということだけに留まらない刺激となるはずだ。

    Sunday, March 18, 2012

    dankogai

    遅くなってしまったけれど、昨日は小飼弾(dankogai)氏の講演に参加してきた。
    19時から渋谷で開催されたちょうど2時間のセミナー。当初予定されていたテーマ(表題)は「ビジネス、エンジニアリングを成功に導く『新しい仕組みづくり』」というものだったのだけれど、当日になって蓋を開けてみると「働いたら負けな理由」になっていた。ちなみにプレゼンテーションは、当日発売されたばかりの新型iPadで。

    講演が1時間。Q&Aが1時間。インタラクティブでなかなか楽しかった。
    そして思ったこと。小飼弾さんという人は、講演よりも「問答」の方が面白いね。
    あれは、かなり凄いです。常人には出来ない切り返しを連投してきて。
    印象的だった言葉を、幾つか書き残しておきます。

    (オンとオフの切り替えについて問われて)
    「自分の胸に、本当に手を当ててください。人間にオフはありません。」

    「ルールを破る自由を持っているのが、アマチュア。
    自分でルールを作れるが、それを破る自由を持たないのが、プロ。」

    (Java/C言語を学んで、これから初めてIT業界へ就職する人へ)
    「あなたは『未経験の業界』だと言うけれど、その業界で起こり得る全てのことに対して未経験という訳じゃない。『未知の体験』という体験は、既にしている。」

    (ITサービスのマネタイズに関する考慮点を問われて)
    「マネタイズ自体が目的であるならば、簡単だ。農業をすればいい。誰もがマネタイズしている。『モノに近い方が、マネタイズしやすい』ということは、知っておいた方がいい。そこにはヒントがあるはずだから。」

    「今は『何かをしなければ』という視点しかない。『何をさせないか』という視点もあって良かったのではないか。それがないのは、哀しい。」

    「エンジニアの価値は、何かを付け加えることではなくて、ムダな何かを完全に削ぎ落とすことにある。でもそれは、ムダな雇用をも削ぎ落とすということだ。その意味で、現代のソフトウェア・エンジニアリングに携わる人間というのは、最も罪深い人間でもあることを自覚しなければならない。」

    「何かの重要性、あるいは価値を捉えるために、そのモノを『抜いてみる』ということを考える。生物科学におけるノックアウトマウスのように。」

    ちなみに俺は、1つの質問をした。(事前に送付していた質問が紹介された。)
    「仕組み化すれば、生産性は一時的に高まるかもしれない。でもその時に、仕組みでしか動けない人間を量産してしまえば、『仕組み自体の高度化』ができない。一方で、仕組みを最も効率的に廻せるのは、仕組みを疑わない人間だったりする。こうした按配を、どのように取るのが理想的と考えていますか。」
    そんな主旨で、事前のメールは書いたつもりだった。

    その回答が、また素晴らしかった。
    「仕組みと、仕組み化されないものとの按配は常に難しく、具体的なケースによって異なる。ただ1つ言えることは、『仕組みの寿命は日に日に短くなっている』ということだ。そのことは意識しておいた方がいい。」
    勿論、ノートに書き落として帰ってきました。

    また、「現代の経営者にコーディング・スキルは必要か」という参加者の質問に対して、こんな逆質問があった。
    「スティーブ・ジョブスはコーダーだったと思いますか」って。
    たまたま俺は、司会者に指名されてしまい、ちょっと考えてから発言した。
    「例えば、iTune Storeによって個人に課金するという『仕掛け』をコードした、という意味で、コーダーだったのではないか」って。
    それに対して、「いや、それはジョブスじゃないんですよね」と断ってからの、彼の回答がまた凄かった。
    「ジョブスは、コーダーをコードしたんです。」

    Saturday, March 17, 2012

    『非常識な読書のすすめ』


    非常識な読書のすすめ ―人生がガラッと変わる「本の読み方」30




    • 作者: 清水 克衛、「元気が出る本」出版部

    • 出版社: 現代書林

    • 発売日: 2012/3/13


    本日読了。久しぶりに「ビジネスブックマラソン」から買ってしまった。
    俺は本が読みたい訳で、読書本が読みたい訳ではないのだけれど、これは読書本であるだけでなくて、ただ「本」として面白い1冊だ。ちなみに、まさに本書のタイトルが示しているように、読書本もちょっと非常識なものは概して面白いものだ。(例えば成毛さんの『本は10冊同時に読め!』なんかは、かなり刺激的で面白かった。)

    もう、ページを繰るごとに「そうだよなあ」と思いながら、読書を楽しむことができた。
    唯一違和感を感じたのは、本書のタイトルだ。本書に綴られている読書の考え方は非常識でも何でもなく、ある意味では王道中の王道だと思ってしまった。本なんて、堅苦しく読むようなものではないよね。つまらなければやめてしまっていい。生きていくうえで直接的にはほとんど何の関係ないようなものばかりを読んでいてもいい。人生を深めるかどうかを考えながら読む必要も、正直なところ特にないと思う。(例えば、『さまぁーずの悲しい俳句』という非常に面白い(と個人的に思っている)本が、うちの本棚にはずっと置いてあったのだけれど、あれなんかは個人的には十分に「いい読書」だったなあと。)

    いいなあと思ったのは、例えば「疑り深い読書」をしないという指摘だ。
    批判的に読む。これは随所で指摘されている読書のあり方で、「本に読まれない」という点で正しい姿勢だと思うけれど、疑り深い読み方というのは、やっぱり違うんだ。どんな本にも良いところがきっとあって、それを探していくように読めばいいじゃないか、と。
    ほんと、そう思います。要するに、素直に読めばいいのだと。

    篠崎でユニークな書店「読書のすすめ」を運営されている著者の清水さんは、数多くの良い本を、数多くの人に届けてあげたくて、「どんな人に読んでもらいたいか」「どんな人の心に響いてくれるだろうか」といったことを考えながら、読書をするそうだ。
    素敵なことだと思います。その域の読書家に、いつかなれるかなあ。

    そんな訳で、まずは本書をおすすめしてみよう。
    箱崎界隈で仕事をしていて、篠崎へのアクセスは悪くなく、金曜日の夜に帰宅して部屋に放り投げたままの通勤バッグの中に、本が1冊も入っていない人へ。

    Friday, March 16, 2012

    『ちょっとピンぼけ』

    ロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』(文春文庫)

    中川さんに刺激されて、本日読了。ちょっと遅くなっちゃったけれど。

    アンリ・カルティエ・ブレッソンと共にマグナムを結成した偉大なる報道写真家、ロバート・キャパによる手記。スペイン内戦、北アフリカ戦線、イタリア戦線を経て、ノルマンディー上陸作戦にも従軍。パリ解放の現場にもファインダー越しに立ち会った。最後は第一次インドシナ戦争の取材中、地雷に倒れて惜しくもこの世を去ってしまう。
    タイトルにもなっている『ちょっとピンぼけ』というのは、ノルマンディー上陸作戦を撮った写真作品が『キャパの手の震えによるボケ』として発表されたことによるものだ。この時のフィルムを現像する際に、その凄さに興奮した技師が溶剤を加熱しすぎてしまい、貴重なフィルムが溶けてしまう。その結果、まともな写真として残っているものはわずか11枚しかないそうだ。本書で綴られている従軍の軌跡はもう凄まじすぎて、11枚しか作品として救われなかったというのは、あまりにも無慈悲な歴史の悪戯としか言いようがないのだけれど、もしかすると、11枚で良かったのかもしれない。1944年のノルマンディーにあったのは、世紀の大写真家でさえ「ちょっとピンぼけ」にならざるを得ない、あるいはピンぼけでしか表現されないものだったということなのかもね。

    色々なことを感じる1冊だ。常識では読めない。
    凄惨な戦争のど真ん中を渡り抜いてなお、キャパはセクシーだ。
    そしてラストは、ちょっぴり切ない。いや、切ないというと、ちょっと語弊があるかもしれない。戦争という地獄の終焉は、切なくてはいけないはずだ。でも、やっぱり切ない。
    女性の視点で読めば、もちろん異なる感想になるのだろうけれど。

    Wednesday, March 14, 2012

    原点

    ちょっと悪い流れかな。
    滞留している。うん、何かが滞留している。
    シンプルにいえば「仕事が」ということなのだけれど、本質はそこにはなくて、心のどこかに滞留の源がある気がする。流れとよどみはセットのはずなのに、小さなよどみがうまく流れていってくれない感じがして。

    さて。
    今日は4年ぶりに目黒を訪れた。
    名古屋に赴任するまでの5年間、本当にお世話になったお客様へのご挨拶で、ちょっと早めの昼食までご一緒させていただいた。勿論、八ツ目うなぎを。
    嬉しかった。箱崎に戻っていながらもう2ヶ月が過ぎてしまったけれど、きちんとご挨拶できて本当に良かった。抽斗の足りない俺は、仕事の話は殆ど出来なかったけれど、ラグビーの四方山話に花が咲いて、穏やかに、楽しい時間を過ごさせていただいて。
    ご挨拶の前に、約束の時間よりも少し早めに移動して向かったSEルームも懐かしかった。当時とは別の部屋に移っているのに、空気感はさほど変わらなくて。当時からお世話になっていたメンバーの方も一部残っていて、相変わらずの雰囲気で。

    改めて思った。俺は運が良かったなあと。
    目黒という場所で、とても大切なものをいただいたという事実を再認識したからだ。

    それは、「原点」。
    まだ10年足らずのキャリアしかない身なので少々気が引けるけれど、今の自分のベースを育ててくれたのは、間違いなくこの場所だったんだ。仕事の作法や基本、知識やノウハウといったことだけではない。例えばSEルームの空気。先輩方との雑談。小さな部屋の片隅に居場所を作ること。もちろんお客様との接し方や人間関係。表情の交換。言ってしまえば、もう何もかもが。

    そんなことを思いながら、田園都市線に揺られて帰ったのだけれど、鷺沼を通り過ぎたあたりで、当時のあるお客様の言葉をふと思い出した。
    「仕事ってのはな」
    その方とお酒をご一緒させていただいた時なんかは、よく言われていたんだ。
    「要するに、ネタとオチだ」って。

    ここでようやく俺は、自分の心の小さなよどみに戻ってきたんだ。今の自分のことに。
    オチは見えている。あとはネタなんです。

    Sunday, March 04, 2012

    『不完全なレンズで』

    ロベール・ドアノー『不完全なレンズで』(月曜社)
    昨日の夕方、キャパの『ちょっとピンぼけ』を買うつもりで書店に寄ると、残念ながらお目当ての1冊が置かれていなかったかわりに、もうこれは衝動買いするしかないという1冊が偶然にも目に飛び込んできた。
    ロベール・ドアノー。そして、魅力的なタイトルと装丁。
    そんな訳で今、読んでいます。

    ドアノーの写真は、とても好きだ。もう1人の大好きな写真家、アンリ・カルティエ・ブレッソンと比較すると、ドアノーの方が甘美な感じがする。(パートナーによれば、セクシーだと。)
    甘美で、どことなく「おちゃめ」な写真。それが、個人的なドアノーのイメージだ。
    本書はそんなロベール・ドアノー自身によるエッセイに、幾つかの写真作品が添えられたものなのだけれど、文章もなかなかに叙情的だ。散文的でまとまりはないけれど、詩的で、イメージの彷徨うままにペンを進めたというような感じの文体。
    きちんとそのイメージを追っていくのは、正直に言って難しい。
    こういうタイプの文章を読む感性が、錆びてしまっているのかも。

    でも、そうは言いながらも、本書を買ったことに一切の後悔もありません。
    挿し込まれた写真の数々を見ているだけで、もう十分に気分がいいのだから。

    『出でよ、平成の志士たち』

    梅津昇一『行動がなければ結果もなし。出でよ、平成の志士たち』(丸善プラネット)
    一応、弊社推薦図書ということになるのかな。
    官民から集められた40代の幹部候補生に対する私塾「フォーラム21」を主催されている梅津昇一さんの著作。現在87歳だというのだから、そのエネルギーは凄いものがある。

    「日本という国家の将来像」を考えることが、フォーラムの目的だという。
    ただ率直な感想を書いてしまうと、ある程度のフレームが先に決まっている感じがする。
    ... 言葉の端々に、著者の価値観・思想が垣間見えるけれど、個人的には、そこで暗黙の前提とされているものへの視座こそが、本当は大切なのかなと思っている。
    例えば、「このままでは日本は沈没する」と言う。著者に限らず、よく耳にする台詞だ。でも俺には、「沈没」の定義が分からない。それは、国際経済における存在感の低下だろうか。そうだとすれば、それはGDP/GNIだろうか。あるいは、1人あたりGDP/GNIだろうか。更には別の尺度だろうか。定義なき沈没を憂う、というのはつまり何だろうか。
    一方では、「これまでのような経済中心の発想では、日本の真の復活はない」と言う。復活という以上は、以前の日本には栄光があったはずだ。それは経済以外で実現された栄光だろうか。経済による復活でないとすれば、では「日本の沈没」というものも、やはり経済以外の指標で語られるものだろうか。
    「国家の風格を論じる」という。日本はいかにして風格ある国家となれるだろうかと。でも、そもそも「国家の風格」とは何だろうか。国際政治の文脈において、決然たる態度を示すことだろうか。あるいはもっと、国民1人ひとりの佇まいや生活様式、文化にこそ求められるものだろうか。更に言えば、そもそも国家に風格は必要なのだろうか。「武士は食わねど高楊枝」が風格だとして、「風格なき豊穣」と天秤にかけられたとしても、人は風格を取るのだろうか。
    いや、本当はもっと先の疑問もある。官民の幹部候補生が語るべきは、国家だろうか。むしろ「脱国家」、あるいは「超国家」や「非国家」だったりしないのだろうか。企業を中心とした経済活動がここまで国際化している現代において、国家という枠組みに囚われることなく、よりボーダレスなフレームで議論することは出来ないのだろうか。

    俺自身に、その解がある訳ではないけれど、そんな疑問が噴出してくるんだ。
    少なくとも、「価値」を表す言葉はもっと掘り下げて定義すべきだと思うなあ。
    「沈没」や「風格」というのは、マジックワードだから。

    Friday, March 02, 2012

    『ユーロ・リスク』

    白井さゆり『ユーロ・リスク』(日経プレミアシリーズ)
    本日読了。もう少しタイムリーな時期に読むべきだった。
    昨年6月に刊行された本なので、多少古くなってしまったけれど、ユーロ圏の現状と課題について非常に分かりやすく整理されている。一読しておいて損はない1冊だ。

    ユーロ圏を、高リスク国(ギリシャ・アイルランド・ポルトガル・スペイン)、中リスク国(イタリア・ベルギー等)、低リスク国(ドイツ・フランス・ルクセンブルク・オランダ・オーストリア・フィンランド)という3つのグループに分類し、それぞれの特徴を明らかにしていくのだけれど、例えば高リスクの4ヶ国でも、問題の構造は異なっている。巨額の財政赤字と政府発表データ(財政統計)の度重なる大幅修正で信用を失墜させたギリシャ。不動産バブル崩壊で銀行危機に陥ったアイルランド。GDP比でみた対外債務が110%を超えて、ユーロ圏最大であることに加えて、政治危機も重なったポルトガル。財政収支の悪化スピードが極めて速く、2007-2009の2年間でユーロ圏最大となる13%ものマイナスを記録したスペイン。こうして整理されると、一言で「ユーロ・リスク」といっても様々な背景が複合的に絡み合っていることが良く分かる。
    ドイツとフランスの比較も面白い。低リスクに分類される6ヶ国でみても、ここ数年で経常収支が唯一マイナスとなっているのがフランスで、ドイツを中心としたその他5ヶ国はプラスだ。なるほど。初歩的なことだけれど、とても勉強になるね。

    ちなみに本書の結論は、高リスク国/低リスク国の別を問わず、ユーロを崩壊させることにプラスのモチベーションを見出せる国家はない、ということだ。たとえギリシャに足を引っ張られたとしても、ドイツは足を洗えない。それがユーロだと。

    Monday, February 27, 2012

    『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』

    ハル・ビュエル 『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』

    実は、横浜に引っ越して最初に買った本。
    ピュリツァー賞を受賞した歴代の報道写真が網羅されている。

    昔から写真に対する興味があった訳ではないのだけれど、数年前にTV東京『美の巨人たち』でアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真を見て以来、写真がすごく好きになった。それからは、ブレッソンの写真集は勿論のこと、他にも幾つかの写真集を買うようになって。

    そんな訳で、本作。
    報道写真なので、やはり重いです。ピュリツァー賞を取るような写真というのは、社会の断層や非業なる現実、政治の闇、あるいは人間の暗部といったものを切り取ったようなもので、正直に言って正視に堪えないシビアな写真も多い。
    それが現実だと、目を逸らすなよと言われればその通りなのだけれど、報道写真というものの難しさをどうしても感じてしまう。ピュリツァー賞を受賞した報道写真家達は、ジャーナリストとして素晴らしい仕事をしたのだと思うけれど・・・。
    『プロヴォーク』の写真家達は、「アレ・ブレ・ボケ」といったのだけれど、個人的には、特に近年の受賞作ほど、あまりにクリアすぎるような気がしないでもない。写真は時間を切り取るものだけれど、あまりにも切り取られすぎている感じがするんだよね。止まり過ぎているような。こういう写真が撮られた時に、ファインダーの前にあった現実は、もっとアレていて、ブレていたんじゃないかというのが、個人的な想像だ。
    まあ、ド素人の想像だけどね。

    『フラジャイルな闘い 日本の行方(連塾 方法日本)』

     松岡正剛著『フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾 方法日本)』

    ようやく読了。ここ1週間近く格闘していた。
    いやもう物凄い本です。松岡正剛と佐藤優は、現代日本を代表する知の巨人だね。
    本書は、その松岡正剛が講じた「連塾」の第7講と第8講(最終回)。
    「日本という方法(方法日本)」という言葉で、日本というものの光と影、表と裏、歴史と今、オリジナリティと普遍性、そういったものを松岡正剛流に紐解いていくのだけれど、その発散のレベルがあまりに凄まじくて、前半(第7講)を読むだけでノックダウンされそうになる。
    感想なんて迂闊に書けない、といった類の1冊です。
    本書の頁を手繰ってしまうと、読みたい本、聴きたい曲、観たいDVDといったものが相当に増えてしまうのは、もう間違いない。とりあえず俺は、小林正樹によるドキュメンタリー映画『東京裁判』のDVDと、ジャズピアニスト秋吉敏子さんの『孤軍』を買ってしまった。

    ちなみに、松岡正剛さんの著作を読んだことがなければ、『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)をまず読んでみるのがお勧めです。これはもう完全に面白いので。

    Tuesday, February 21, 2012

    紙を折る

    大切な会議がある。
    その難しい舵取りを、今のチームにおけるリーダーの先輩達が担おうとしている。

    俺は、陪席。発言権はない。
    でも仮に権利があったとして、場を動かす言葉を発することができるだろうかと自分の胸に問いかけると、率直に言えば、今、それだけの能力はきっとない。

    25人が参加する明日のために、1人で資料を刷っていく。
    A3とA4が順不同に混在しているのを、1つずつ並べて、A3の用紙を折りたたみ、クリップで順番に留めていく。
    紙を折っていると、どこか気持ちが整理されていくような感じもする。晩ご飯で使った食器を洗っている時の感覚に近いのかもしれない。ちょっとずつ何かが片付いて、正しいところに収まっていくような、そんな感じだ。とにかく、ほんの小さなことが資料の印象を壊してしまわないように、1セットずつ、いつもより心持ち丁寧に折っていく。なるべく角が揃うように。
    あとは、ただ明日を待つばかり。

    それが、今の自分の実力です。

    明日の展開は読み切れないけれど、この資料に託されたものがきちんと伝わってくれれば、それこそが最高の成果だと思う。
    そして、きっとそうなる。責任者として最前線に立たれる先輩達の本気と誠意をもってすれば、間違いなく思いは届くはずだ。そして、そういうリーダーがこのチームにはいるのだから、今の状況が多少苦しかったとしても、本当に良いチームだということに変わりはない。そう、恵まれている。

    いつか恩返しをしないといけない。
    いつか、なんて悠長なことではないのかもしれないけれど。

    シナリオこそ書かなければ。
    紙に図表を書くだけではなくて。
    時には正論から折れる決断力を。
    でもそれは、明日の紙を折った時のように繊細に。
    そして、表現されない部分への想像力を。
    目先のことだけに視野を奪われるのではなくて。

    なんて、小さな決意表明です。

    Friday, January 27, 2012

    『「上から目線」の時代』

    冷泉彰彦著『「上から目線」の時代』(講談社現代新書)

    昨日読了。
    冷泉彰彦さんの記述はやや冗長な感じもして、社会批評的な著作が苦手な人には多少読みづらいかもしれない。メールマガジン『JMM』の記事は基本的に面白く、毎週読んでいるけれど、新書となると、なかなかこってりした感じもあるかなと。

    前著『「関係の空気」 「場の空気」』の続編に近い位置づけの1冊。
    数年前、KYという言葉が流行した頃は「空気の時代」だった。空気がコミュニケーションを支配する時代。小泉総理(当時)が、改革の「空気」で席巻した時代。
    しかし、昨今では「空気」が消滅しかけている。空気が醸成されるのは、ある種の共通感覚が成立しているからだけれど、今は空気だけで事が解決できないという「困難の感覚」が蔓延してきている。そうなると、従来は「空気」の存在を前提としていたコミュニケーションそのものが困難を伴うようになり、より慎重にコミュニケーションを取らなければ、結果として衝突を引き起こしてしまう。それを回避するための1つの手段が「目線」のコントロール(目線を合わせることによる「対等な関係性」の印象づけ)であり、そんな時代だからこそ、「上から目線」というものが敬遠されるのだ、というのが著者の見立てだ。
    うん、やっぱりちょっと冗長かなあ。

    まあでも、「KY」とか「空気」とか、「上から目線」とか、ほんと息苦しいなあと思う。
    「空気」に支配されるのも正直勘弁だけれど、確かに「上から目線」という言葉の重苦しさもなかなかのものがある。著者も言うように、これは「日本語」という言語の特性によるところも大きいのかもしれない。(外国語に明るくないので、正確なところは分からないけど。)

    日常生活においても、仕事においても「目線」はとても重要で、(自分がきちんと出来ているかどうかは別として)目線への配慮は避けられないことなのだけれど、本当は、素直に話していることの中身でコミュニケーションできれば、その方が個人的にはいいのになあ、と思うことはあります。あなたはあなたで、貴殿でも貴職でもなく、私は私で、小生でも小職でもなく、ただ"You and I"であってくれればいいのに、と。
    (ちなみに俺は、この4つの言葉は使わないようにしています。)

    Friday, January 13, 2012

    非ストラクチャーは常に。

    『ラグビークリニック』 2011年12月号(ベースボール・マガジン社)
    遅くなってしまったけれど、本日ようやくチェック完了。
    現役としてラグビーに携わっている人間ならば、プレーヤー/コーチを問わず、間違いなく買った方がいい雑誌だと思います。純粋に面白いしね。

    「アンストラクチャー」というのは、当然ながら「ストラクチャー」の対概念として扱われているのだけれど、この境界線は曖昧で、ややその本質を掴みづらいところはある。セットプレーを起点としてシークエンシャルに展開されたプレーは、その全体を「ストラクチャー」として扱ってよいものなのか、俺にはよく分からない。事前に周到に準備されたプレーを、想定した通りの間合いとスピードで仕掛けて、そして相手がある程度想定通りの反応を見せる、といった一連をもって「ストラクチャー」とするならば、俺がコーチとして関わってきた学生リーグのレベルで考えると、「ストラクチャー」と言い切れるようなフェーズは殆どないのかもしれない。
    もしくは、あくまでその「起点」にフォーカスした概念なのだろうか。相手のミスやターンオーバー、あるいはキックカウンターに代表されるような。でも、計算通りのキックを蹴り込んで、それを受けた相手バックスリーがカウンターを仕掛けてくれば、それは「アンストラクチャー」とはちょっと違うような気もする。この場合は、「アンストラクチャーを、ストラクチャー化する戦略」とでも語られるのだろうか。

    重要なのは、概念じゃないと思うんだよね。
    原則としての合理性を徹底的に追求しながら、その一方で常に起こり得る非合理、あるいは逸脱を受け入れて、それにどう対処するか。それは、「アンストラクチャー」という言葉さえなかった頃から、何ら変わっていないはずなんだ。
    そしてそれゆえに、本書を読む意味は、ラグビーの時流・変遷を問わず、普遍的に見出せるはずだと、俺自身は思っています。

    Wednesday, January 11, 2012

    『弱者の兵法』

    野村克也著『弱者の兵法』(アスペクト文庫)

    本日読了。
    名将、野村克也が綴った勝負の哲学であり、野球という枠に留まらない組織論。
    非常に面白く、あっという間に読み切ってしまった。

    前中日監督の落合博満が「プロ野球界広しといえど、『野球』を語れるのはノムさんだけだ」と語ったという挿話が出てくるが、確かに落合博満の著書『采配』、『コーチング』を読む限り、この2人には多くの共通点がある。

    1つは、徹頭徹尾「勝負師」である、ということ。
    2人とも、勝負に対する拘りが生半可ではない。自身の仕事を、「野球」ではなく「勝負(そして、結果としての『勝利』)」と捉えていることが、言葉の端々から強烈に感じられる。本人達の弁はともかくとして、おそらく類稀なる天性の素質を備えていたはずのこの2人は、素質そのものではなくて、傑出したその「活かし方」によって、勝負をモノにした。そのことに対する自負心、あるいは(良い意味での)プライドは非常に明快で、読んでいて気持ちがいい。「つまらないプライド」が醸し出す不快感を全く感じないのは、さほど野球に詳しくない人間が読んでいても、その言葉の背後に「生き様」が垣間見えるからだろう。

    もう1つの共通点は、徹頭徹尾「人間」である、ということ。
    2人とも、同じ勝負の舞台に立つ仲間に対して、非常に優しい。俺自身はラグビーの経験が長くて、プロ野球の世界は殆ど知らないけれど、それでも、これほどまでに優しい指導者というのは極めて稀だと思う。いや、表面的には厳しく、怖い監督だったのかもしれない。現に、野村克也が監督だった当時のヤクルトの主砲、池山隆寛は「当時の監督は、かなり怖かった」と後々になって語ったそうだ。それでも、著書を読んでいる限り、この2人の指導者に共通する「優しさ」というものを感じずにはいられない。それはきっと、「選手を(あるいは選手の努力を)決して見限らない」という姿勢を貫徹されていることによるものだと思う。
    これは、言葉にしてしまうと簡単だけれど、本来とても難しいことだと思っている。

    野村克也は本書の中で、「人は無視・賞賛・非難の段階で試される」と語っている。
    実力のない人間は、目にも留まらない。
    ある程度、見込みが出てくると、自信を与えるために賞賛される。
    しかし、賞賛ばかりで勘違いをさせないために、核となる人間は、あえて非難する。

    選手への深い愛情がなければ、このプロセスは廻らないだろう。
    本当に素晴らしいことだと、俺は思います。

    そして、これを裏返せば、プレーヤーの心意気も見えてくるよね。
    無視に腐っている暇があるなら、基礎練習を積み重ねて、地力を培わないと。
    賞賛に酔っている暇があるなら、その先にきっと待ち構えている壁を意識しないと。
    非難に沈んでいる暇があるなら、非難してくれる人間の愛情を意気に感じないと。

    まずは自分自身の仕事から。
    2012年は、この意識を心に刻み込んで過ごしたいと思います。

    Monday, January 09, 2012

    大学ラグビー決勝。そしてフラットパスについて。

    1日遅くなってしまったけれど、ラグビー大学選手権決勝のことを。
    帝京大 15-12 天理大 @国立競技場

    素晴らしいゲームだった。
    3連覇という偉業を成し遂げた帝京大は見事だった。そして、惜しくも敗れてしまったけれど、天理大の奮闘もやはり見事だった。お互いの持ち味が随所に発揮された非常に見応えのあるゲームだったと思う。

    おそらくこのゲームは今後、「天理大の大健闘」という観点で主に語られることになるだろう。
    そして、それ自体は間違ってもいないと思う。
    ただ個人的には、何よりもまず最初に、帝京大がこの3年間で積み上げてきたものへの賞賛と敬意があって然るべきかなと思っている。3連覇というのがまさに偉業である、というだけではなくて、帝京大の存在が、今後の大学ラグビーにおける"Standard"を一段階上のレベルまで押し上げることになったと感じるからだ。それほどまでに、帝京大のクオリティは充実していたと感じている。

    ちょっと話は逸れるが、実は昨晩、録画しておいた高校ラグビーの決勝(東福岡 36-24 東海大仰星)もTV観戦した。大学選手権の決勝を観る前に、こちらを先にチェックしたのだけれど、誤解を恐れずに書いてしまうと、大学決勝の方が圧倒的に面白かった。勿論、高校ラグビーがつまらないと言いたい訳ではなくて、全国の高校ラガーの頂点を決めるゲームは、高校ラガーの生き様が体現されていて非常に見応えのある内容だったのだけれど、ただ、ラグビーそのもののクオリティは、圧倒的に大学ラグビーの決勝が上だった。そしてその違いは、単に高校/大学の差から生じたものではなくて、ひとえに帝京大/天理大の両チームが引き締まったプレーをしていた、ということによるものだと思う。1つひとつのプレーの強さやスキルレベルで、大学が高校を凌駕するのは当然だ。問題は、そこじゃない。レベルを問わず、引き締まった一戦というものはある。今シーズンの大学ラグビー決勝の面白さは、この点にこそ認められるべきかなというのが、俺の感想だ。
    特に帝京大は、広範な意味で、ラグビーをタイトなものにした。
    この功績と、そのことが醸し出すラグビーの新たな醍醐味が、間違いなくあるはずだ。

    帝京大のラグビーが「つまらない」というのは、1つの側面かもしれない。
    でも一方で、タイトで引き締まったプレーは極めて見応えがある、というのも事実だ。
    個人的には展開志向のチームの方が好きだし、多くのラグビーファンも同様だと思うけれど、そのことが帝京大の価値を毀損するものでは全くない、という点は改めて書いておきたい。

    前置きが長くなってしまったけれど、その前提の上で、やはり天理大。
    こちらも素晴らしかった。間違いなく、天理大はベストバウトをしたと思います。
    惜敗したチームに対して「ベストバウト」は失礼かもしれないけれど、そうとしか表現できない。セットプレーであれほど劣勢に立たされながら、一度ボールを持てば果敢なアタックを仕掛け、帝京大の強固なディフェンスラインを度々ブレイクしてみせたのは、本当に見事だった。
    やはり何と言っても、SOとしてチームをリードした立川選手の存在が大きかったと思う。

    BKの観点でみると、帝京大と天理大の最大の違いは、SOのパスコースかなと思っている。
    帝京大のBKラインは、ボールの軌道がやや深く、多少流れ気味のランニングコースを取ってくる印象だ。FWのボール供給が安定していること、そして個々のランナーにある程度スピードがあることで、このスタイルが成立しているのかなと。SOの森田選手から繰り出されるパスは、全般的にみると、トライラインに対してほぼ45度近く下げた角度で放たれているような印象がある。(ただ、これは森田選手個人の力量云々というよりも、多分に「チームの選択したスタイル」の問題だ。彼自身は、ランニングスキルも高くて、非常に良い選手だと思っている。)
    一方の天理大をみると、SOの立川選手は、原則としてボールを下げない。ロング/ショートを問わず、基本的にはフラットな角度にパスを放ってくる印象がある。ここが全く違うポイントだ。特にロングパスの場合、パス自体のスピードがないと、簡単にシャローされてしまう。また、パスコースが読まれてしまうと、往々にしてホスピタルパスになる。つまり、天理大のアタックが上手く機能しているのは、SO立川選手のパス自体が速くて、そして読みづらいということだ。勿論、ハベア、バイフという外国人の両CTBが外に控えているのは大きいけれど、彼らを「ただの駒」にしていないのは、やはり立川選手のスキルによるものだろう。

    JSportsの解説で、藤島大さんが「天理大には、大きく言えば『日本ラグビー』の可能性を感じさせるものがあった」といった主旨の発言をされていたけれど、その1つのポイントは、こんなところにあるのかもしれないと、個人的には考えている。
    ディフェンス・プレッシャーが極めて速くなっている昨今のラグビーにおいて、簡単にボールを下げるのは自殺行為だ。それでも、ただフラットにボールを運んで、ほぼ真っ直ぐのランニングコースで突進していくのは、フィジカルに劣るジャパンには辛いと思う。テンポとフィジカルだけで切り裂けるほど、日々進化していく国際レベルのディフェンスは簡単ではないかなと。
    そこで、理想的には思う訳です。
    パスは下げない。でも、相手の出足を許さない。そんなパサーが生まれないかと。

    魅力的なフラットパスは、フラットであることだけが醍醐味ではないと思います。

    『坂の上の坂』

    藤原和博著『坂の上の坂』(ポプラ社)

    いい本です。
    藤原和博さんの過去の著作を読んでいると、重複感が否めない点もあるけれど、それでもやはりお勧めできる1冊かなと。

    昔は、定年まで必死に働いて、坂を上るその視線の先には見上げる雲があった。
    雲とはつまり、ロマン。平均寿命も現代の半分程度だった『坂の上の雲』の時代、人は雲を見上げながら死を迎えることができた。
    今は、違う。60歳で定年を迎えても、その先に20年、30年という老後が待っている。
    そこにあるのは、見上げる雲ではなくて、新たな坂ではないか。
    それは上り坂かもしれないし、下り坂かもしれない。
    でも坂と向き合っていく準備は、これからの時代では絶対に必要ではないか。
    そんな問題意識に沿って、本書は綴られている。
    想定されているメインターゲットは、30代~40代のビジネスパーソン(特に男性)だ。
    勿論、それ以外の年齢層でも、あるいは女性でも、きっと面白く読めると思う。
    個人的には、配偶者と一緒に読むのがお勧めだ。
    そんな訳で、パートナーにも読んでもらいたいなあと思っている。

    会社、あるいは仕事は、人生の極めて大きな部分を占めている。
    その事実を明確に認めた上で、でも会社は人生を託す場所ではないと悟る。
    人生の豊穣とは、もっと「生活」の中にあるからだ。
    ただ、会社員という存在そのものを、単純に「組織の奴隷」と切り捨てたりはしない。
    そうではなくて、会社に寄りかからない人生を、選択的に生きる、という感じかなと。
    そういう思考の展開はとても丁寧だと、個人的には感じます。

    率直に言うと、藤原和博さんの考え方には、非常に共鳴する点が多い。
    適切な表現かどうか分からないけれど、俺にとって藤原さんは、ひそかな「ロールモデル」とでも言うような存在になっている。もちろん、俺は藤原さんではないので、同じことは出来ないし、するつもりもないのだけれど、どこかで追いかけている自分がいるんです。

    Saturday, January 07, 2012

    スタイルとベーシック

    永田洋光さん責任・編集の有料メールマガジン『ラグビー!ラグビー!』をいつも楽しく読んでいるのだけれど、本日刊行された永田さんの論考を読んで、少々考えてしまった。端的に言ってしまえば、大学選手権3連覇を狙う帝京大のスタイルについて、「そこに未来はない」ということでネガティブな評価をされているのだけれど、もう少し丁寧な思考が必要な気がして。

    帝京大が大学選手権を初制覇した頃から変わらず採用しているのは、強力なFWを武器に、ポゼッションを最優先とするスタイルだ。ブレイクダウンの優位性を揺るぎないものとしながら、ボールキープ能力の高い外国人選手を核とした近場のアタックを継続して、リスクを可能な限り回避する戦略。BKはロングキックを主体としたエリアマネジメントを徹底すると共に、FWが動きやすい(FWのサポートを得やすい)形を意識した展開を基本軸に据えている。
    そのスタイルに対して、「つまらない」 という評価は従来からある。
    日本人が世界を相手に戦っていくことを考えた時に、 将来の日本ラグビーを背負う人材を輩出していくべき大学のトップチームのスタイルとして、「未来がない」という評価をしたくなる気持ちは、正直に言えば分からなくもない。ファンにとっても、よりボールがダイナミックに展開される方が面白いのは当然だ。
    ただ、俺は思うんです。
    スタイルと、それを裏づけるベーシックとは、独立して評価されるべきではないかと。

    帝京大の本質的な強さは、そのスタイル自体ではなくて、そのスタイルを80分間に渡って完遂できる安定したベーシック・スキルにこそあると思う。他のチームが帝京大のスタイルを踏襲しようとしても、きっと出来ないだろう。あのスタイルは、彼らがブレイクダウンの局面で求められるスキルを徹底的に鍛え上げた結果であって、その努力と完成度については、冷静に評価されて良いはずだ。更に言えば、あのゲームマネジメントを成立させているのは単純なコンタクト・スキルのみではなくて、例えばコンタクトフィットネス、リザーブを含めた22人全員の戦術理解、グラウンドレベルでのコミュニケーション能力といった全てが揃っていることが重要だ。つまりそれは、本当の意味で「チーム」として機能しているということを意味していて、一朝一夕に出来ることでは決してない。
    そのこと自体は、素直に素晴らしいと、俺は思います。

    勿論、永田さんの論考の主旨は、もう少し先にあるのだと思っている。
    何をもって「ベーシック」とするか。その定義というのは、結局のところチームの志向するスタイルに依拠している。帝京大がブレイクダウンに焦点を当てて、そのスキルを徹底的に磨き上げたのは、彼らのスタイルがそれを要求するものだったからだ。つまり、帝京大が「日本ラグビーの将来」というビジョンからスタイルを再定義すれば、当然ながら要求される「ベーシックの質」は変わってくることになる。
    「4年間という限られた時間の中で、日本ラグビーの未来を託された優秀な選手達に叩き込むべきベーシックと経験は、今の帝京大のスタイルからは導き出せないだろう。 」
    つまるところ、永田さんの主旨はそういうことかなと思っている。

    それでも、やはり思わずにはいられない。「日本ラグビーのオリジナルを追求するにしても、結局のところブレイクダウンは避けて通れない」という現実を。
    ブレイクダウンが多少劣勢だったとしても、展開力とスコアへの道筋を持ったチーム。この理想は、誰もが抱いていると思う。 でも、ブレイクダウンが「圧倒的に」劣勢だったら、まず勝てない。そして、インターナショナルの本気のブレイクダウンというのは、W杯のトンガ戦を思い返すまでもなく、「技術と知性を備えた野獣の世界」なのかなと。
    帝京大のスタイルがつまらない、ということよりも、ブレイクダウンの劣勢を覆すだけのスタイルを有するチームが登場していないこと、あるいはスタイルを存分に発揮できないほどにブレイクダウンで水を開けられているチームが多いことの方が、本質的な問題かなと思います。

    「構造」の醍醐味

    佐々木融著『弱い日本の強い円 』(日経プレミアシリーズ)

    本日読了。
    噂に違わない良書だった。
    その動きが非常に捉えづらい「為替」というものについて、極めて分かりやすい解説がされている。勿論、その説明が分かりやすいからといっても、現実の為替変動は多種多様な要因が複合的に絡み合った結果なので、将来の(特に短期的な)変動を予想するのはやはり困難だと思う。とてもじゃないが一般の社会人には無理な話で、そんなことに時間を割く必要もないような気がする。FXで勝負する暇があるならば、仕事で勝負した方が間違いなく利回りはいいだろう。まあ、利回りのために仕事している訳ではないけどね。
    本書の価値は、もっと別のところにある。
    要するに、為替というものを構造的に理解するための格好のガイドになる、ということだ。自分自身を含めて、金融というものを体系的に学んだ経験がない人間にとっては、本書を読むことでおそらく相当の気づきがあると思う。円高/円安というものの基本的な理解、昨今の国力という非常に曖昧模糊とした概念と為替との相関性は全くないという事実、日本の国益からみた為替の捉え方などは、目から鱗の面白さだ。

    それにしても、マクロ/ミクロを問わず、経済学というのは非常に面白い学問だという感覚は、社会人になってから日々強まっている。「経済学は科学ではない」とか「経済学とは、経済学者に騙されないために学ぶものだ」といったように揶揄されることも多いのが経済学だけれど、経済学の醍醐味というのは、極めて論理的なその「推論プロセス」にこそあるような気がしていて、「それで結局、明日はどうなるのか」みたいなことは、ある意味では副次的なものと考えてしまってもいいような気がしている。
    構造的な要因に基づく帰結は、ある程度予測できる。
    でもそれ以上のことは、結局のところよく分からない。
    それでいいんじゃないかなと。
    明日が正確に分かってしまったら、そもそもつまらないのだから。

    Tuesday, December 27, 2011

    メンタリティの綾

    ようやく大学選手権2回戦のチェックが完了。
    帝京大vs同志社大を観ていないのは、結果を知った今となっては残念だけれど、残り3試合も全て見応えのあるゲームだった。大学ラグビーには、やはり独特の魅力があるね。
    筑波大、天理大がいわゆる「伝統校」を破って準決勝に駒を進めた訳だけれど、どちらのチームも「勝てるかも」という雰囲気は全くなかった。グラウンド上にあったのは、「伝統への挑戦」みたいな淡いものではなくて、ただもう「勝つ」という明確な意志だった。
    その意味では、ゲームセットの笛が鳴った瞬間の筑波大メンバーの歓喜は印象的だった。創部初の国立がかかったゲームが、重くないはずがない。それでも、キックオフの笛が鳴ってしまえば、もう眼の前の相手とボールが全て。80分間の死闘を終えて、重みから解放された瞬間に喜びが弾けた姿を見ていて、彼らはとても成熟したメンタリティを持って闘っていたのだろうなあと感じた。

    ゲームとして最も揺れ動いたのは、早稲田大vs関東学院大だ。
    どちらに転んでもおかしくないゲームだった。
    関東学院大は、リーグ戦での東海大への惜敗を見て、選手権では化けると思っていたのだけれど、まさに荒馬の本領が出てきた感じがする。いまや伝統になってきた感のあるFW勢の大きなストライドでの突進は、他のチームには意外と見られない魅力だ。大学ラグビーのシャローディフェンスはやや飛び込み気味のタックルも多いので、膝を高く振り上げたワイルドなランニングは、比較的有効なスタイルかもしれない。やや不用意なミスと反則が多いのは気になるけれど、天理大は比較的闘いやすい相手になるだろう。準決勝までの約1週間でも、まだ成長してきそうで楽しみだ。

    早稲田大は、惜しまれる敗戦となってしまった。
    discipline(規律)のしっかりした非常に良いチームだったと思う。キックに対する戻りの早さ、ラッシュすべきポイントへの反応などは抜群で、本当に良く鍛えられているなあと感じた。
    ただ、個人的にちょっと気になったプレーが2つあって。
    1つは、後半早々に敵陣での連続攻撃からSOの小倉選手がDGを狙ったこと。
    正直な印象としては、意図が分からなかった。関東としては、仮にDGが入っていたとしてもむしろ結束したんじゃないかなあ。「やつらは、俺たちのディフェンスを崩せない」って。
    早稲田大の今シーズンの最大の価値は、「スコアまでの射程距離」だったと思うんだ。時間帯とエリアを問わず、隙さえあれば一瞬でトライラインまで持っていく迫力。少なくとも、その雰囲気を常に漂わせているライン。それは、帝京大にもない早稲田のオリジナリティだったと思うのだけれど、あの場面でのDGという選択は、ほんの少しだけ、その雰囲気に曇りをかけてしまったかもしれない。
    もう1つは、関東学院大がゴール前のドライビングモールからBKに展開して奪った2本目のトライの際に、早稲田大のラインディフェンスがアップしなかったこと。相手の展開に合わせてディフェンスコースを取っていく選択をして、そのまま外を走り切られてしまった。
    あれも、ちょっと意外だった。早稲田こそ、あの場面はシャローしてくると思っていた。
    早稲田大は、ルースフェーズでは全般的によく出てディフェンスしていて、相手SHがボールに触れた瞬間の出足は大学トップクラスだと思う。まさにdisciplineの世界だ。つまり、能力としてシャローできないチームじゃない。そこが非常に考えさせられるポイントで、あの場面で、早稲田大のラインディフェンスは、能力以外の要素で足が止まったのだと思うんだ。
    結局のところ、それって何だったのだろう。グラウンドに立っていたメンバーの心の中にしか答えはないのかもしれないけれど、そういったとても小さな綾が、スコアを決めていく。
    シャローしたら止められたかどうか、それは分からない。
    こういのは、どこまで行っても結果論でしかないと思っている。
    でも、ゲームの流れを支配する両チームのメンタリティのせめぎ合いの中で、それはワンプレー以上の意味を持っていたのかもしれないと思ったりもする。特にノックアウト・ラウンドの大学選手権においては、そういう側面は強いのかもしれない。
    (出場したことがないので、想像でしかないけれど。)

    でも、それでもやはり、早稲田大はとても良いチームだった。
    それは、間違いないと思います。

    Monday, December 26, 2011

    2D:4D比


    ちょっと気休めのトピックを。
    名著『競争と公平感』で有名な大竹文雄さんのblogによると、人差し指と薬指の長さの比率(2D:4D比)と大相撲力士の昇進との相関についての研究があるそうだ。
    http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/142212/126445/70979511

    パートナーによると有名な話のようだけれど、なかなか興味深い研究だ。
    要するに、相対的に薬指が長い人ほどパフォーマンスが高い傾向がみられる、ということなのだけれど、一見してスポーツ能力とは何の相関もないように思える2D:4D比に着眼して、統計的に有意な傾向を導出するというのは、やはりアクロバティックで面白い。2D:4D比の差異に影響を与えているというテストステロンは、筋肉増大作用を持つ男性ホルモンなので、そこからスポーツ能力全般との相関へと研究が展開されていったのかもしれないけれど、胎児期のテストステロン曝露量が生後のスポーツ能力にある程度まで影響してしまうというのも、人体の神秘であり、また奥深さということなのだろうか。(胎児期のテストステロン曝露量というのは、どのような要因で決まってくるのだろうか。それが見えてくると、妊婦の過ごし方も変わってくるのかもしれない。)

    ちなみに、自分自身の2D:4D比は見ての通りです。
    パートナーの評価としては、「男性の割には、薬指が短いね」とのこと。
    ラグビーが上手くない理由の1つかもしれません。

    Monday, December 05, 2011

    早明戦

    さて、昨日の早明戦。
    終始スコアで先行される苦しい展開の中、土壇場で勝利をさらったのは早稲田だった。
    結果的にゲームを決めることになった明治の最後の反則は惜しまれるけれど、ワンプレーが全てを決めるような試合ではなかったと思う。80分間にわたってお互いが持ち味を如何なく発揮して、小さなゲームの綾を奪い合った末のラストだった訳だからね。
    好ゲームだったと思います。

    両チームは、この先どこへ向かっていくだろう。
    多少なりともコーチをしている身としては、そのことがとても気になっている。
    特に、早稲田だよね。選手権に向けて、彼らは道筋をどのように捉えてくるかなあと。

    きっと、明治はシンプルだ。
    実際に、明治の方が修正点も明確だ。彼らは自分達の強みを理解している。自分達は、そこで徹底的に勝負するしかない、ということもよく分かっている。あとは、強みが発揮されるエリアでのマイボールを増やすこと。そして、相手のテンポを殺すために、ファーストタックルの精度を更に高めること。端的に言ってしまえば、それだけでいいような気がする。
    メンタリティとしても、チームの心をまとめやすいのかもしれない。
    「君達はよく戦った。でも勝負の神様が微笑むには、まだ2点足りなかった。それでも君達は、もう一度戦う舞台を勝ち取ったのだから、国立でこの2点分を取り返そう。」
    きっとそんなメッセージが、吉田監督から投げ掛けれらているんじゃないか。
    まあ、勝手な想像だけれど。

    早稲田は、もう少し難しい舵取りを迫られている気がする。
    おそらく早明戦というのは、それだけで独立した1つのゴールでもあると思うんだ。
    苦しみながらも、まさに土壇場でゲームを引っくり返した早稲田の選手達は、やはり讃えられてよい活躍を見せたのだと思う。勝利を掴んだことは、やはり素晴らしいことだからね。
    ただ、ここからは俺の想像になってしまうけれど、辻監督はかなり冷静に修正点を見極めているんじゃないか。更に言ってしまえば、この日のゲームは基本的に「明治のゲーム」だったという総括をされているんじゃないか。少なくとも、明治のシンプルなゲームプランと粘り強いディフェンスに苦しみ、思うようにゲームを運び切れなかったのは事実なのだから。
    それでも、勝利を勝ち取った早稲田。
    勝利が新たな自信となって、チームを更に高めてくるかもしれない。
    でも一方で、修正点への意思の統一は、明治ほど容易ではないかもしれない。

    辻監督は、今後チームにどのような言葉をかけるのだろうか。
    とても気になるなあ。選手権の早稲田、やはり楽しみです。
    「勝利に慢心するほど、ウチの選手はヤワじゃない。」
    そんなふうに思っているんじゃないか、という気もするけどね。

    Monday, October 24, 2011

    本物のW杯

    ラグビーW杯、決勝戦。
    それはまさしくW杯の決勝戦にふさわしい最高のゲームだった。

    NZのハカに対して、闘志で応えたフランス。あのフランスが全員で手を繋いで立ち向かったことにも驚いたが、何よりも心を打たれたのはその後だ。若き主将デュソトワールを中心かつ先頭に据えて、両翼が引いたあの陣形。全てを一身に受けるキャプテン。「メンバーは皆、お前についていく」と言わんばかりの全幅の信頼。そして次の瞬間、前へと歩み出したデュソトワールの完全なる闘士の表情。全員がオールブラックスに挑みかかるように歩みを進め、一本の線となった後、最後の瞬間にはむしろ両翼が前にそり出して、デュソトワールは扇の要に位置を取る。きっとあの場にいた21人のフランスのメンバーは思っていたはずだ。「前線は俺たちに任せろ」って。

    そしてキックオフ。
    ウィプーが蹴ったボールが空中戦で弾かれると、後ろにこぼれたボールをコリー・ジェーンが巧みに放して左に展開。その瞬間、フランスのディフェンスラインが今までにない速さで外から鋭く押し上げてくる。その最前線に立って、ウィプーを全身で押し返したのは、他でもない主将デュソトワールだった。
    この瞬間、フランスはこの試合で「本物のフランス」を見せると確信した。

    フランスにとって、決勝はある意味では戦いやすかっただろう。
    予選プールで完敗しているNZを相手に、圧倒的不利という下馬評の中で、アウェイの地で戦うのだから、失うものなど何もない。ブーイングなどに決して揺るがない屈強な自己を備えているのは、準決勝のウェールズ戦が証明している。フランスはやるはずだ。
    そこに最高の準備と、最高のリーダーが加わって、フランスは本物になった。

    そう、本当に精神的にプレッシャーを受けるのはNZの方だ。
    それはもう、キックオフの前から分かっていたことだ。
    でも、漆黒の集団にも同じように最高のリーダーがいた。そして、世界最強を宿命づけられた集団は、そのメンタル・タフネスと集中力もやはり最高に素晴らしいものを備えていた。
    苦しい時間帯においても、一糸乱れることのないディフェンス。
    フランスの執拗かつ速いディフェンスに苦しみながらも、殆どミスすることなく果敢にアタックし続け、その一方では冷静に、的確なキックを織り交ぜてゲームを引き締めたマネジメント。80分間を通してみればテリトリー、ポゼッション共にフランスを下回りながらも、唯一のトライを許したあの場面を除いて、やはりNZは試合巧者だった。
    最高の場所で輝きを見せるはずだったクルーデンを欠いても、最後にやや苦しんだ今大会の精神的支柱ウィプーを欠いても、決して崩れない。いや、崩させない。
    オールブラックスもまた、本当に強かった。

    まさに人間の勝負。
    W杯を戦うのは、つまるところ人間なのだと強く感じた大会だった。
    終わってしまったのが少々寂しいけれど、本当に良い大会だったなあ。

    Monday, September 26, 2011

    流れを掴むために

    名古屋大学ラグビー部のシーズンが、本日開幕した。
    緒戦の相手は、今シーズンからA2リーグに昇格してきた名古屋経済大学。
    社会人時代の先輩、肥後さんがヘッドコーチを務めているチームだ。

    今シーズン、名古屋大が掲げたチーム目標は『A2リーグ全勝、A1リーグ昇格』。
    でも、この日の結果は28-31。
    とても残念なことに、緒戦をもって早くも目標の修正を余儀なくされることになった。

    スコアが示している通り、チーム力に顕著な差はなかったと思う。
    双方共にミスが多くて、お互いに流れに乗り切れないようなゲームだったけれど、大局的に捉えれば、前半(0-17)は完全に名経大のゲーム。後半、風上に立った名古屋大がうまくゲームを運んで3トライを奪い、後半20分までに21-17と引っくり返したのだけれど、ここがゲームの綾だった。自陣10m付近のブロークンな状況から大外展開で持っていこうとした名古屋大が、ミスから流れを失うと、名経大の逆襲を防ぎ切れずに再逆転を許してしまう。21後半ラスト10分を切ってから10点差まで点差が広げられた時点で勝機はほぼ失われ、終了間際に1本返すのが精一杯だった。

    ラグビーのレベルを問わず、ゲームには流れというものがある。
    手繰り寄せるのも、失うのも、自分達次第。
    風下の前半、敵陣で不用意なペナルティを繰り返してしまう。
    相手の得意パターンであるインサイド主体の攻撃を、分かっていながら狙い撃ちできない。
    我慢の時間帯に、一度は相手のジャージを掴んだ指を、簡単に離してしまう。
    0-17は、自分達で招いた当然の展開だった。
    それでも後半、風上からキックでエリアを確保すると、FW・BK共に持ち味が生きてくる。敵陣22mライン付近からのモールをFWが押し込んで反撃の狼煙を上げると、今度は敵陣10mあたりからの連続攻撃からBKがラインブレイクして連続トライ。この時点で、名古屋大がすべきことは完全に見えていたはずだった。

    後半の残り時間は20分弱。風上で4点差。
    名古屋大にとってのスコアへの射程距離は、敵陣10mライン。
    スクラムは劣勢だが、FWのモールは計算できる。
    ブレイクダウンでのボールへのプレッシャーは決して強くない。
    執拗な絡みもないので、孤立しなければボールはリサイクルできる。ロストの大半はミスだ。
    相手は自陣からでも展開してくるチーム。キックのオプションは少ない。名古屋大のキックに対しても積極的にカウンターを仕掛けてくる。でも、CTBの戻りは早くない。

    これだけの条件が揃って、チームが何を選択するか。
    ここがゲームの分岐点。そして、この日の名古屋大が流れを失ったのが、まさにここだった。

    確かにチャンスはあった。
    それは間違いなく事実で、積極的に展開しようという意志を否定するつもりもない。
    それでも、チームの状況とゲーム全体の流れを見れば、考えるポイントは他にあったんだ。
    4点差というのが、自分達にとってどの程度のアドバンテージなのか。
    そこにあるチャンスフェーズは、スコアのチャンスなのか、 10mゲインのチャンスなのか。
    その時間帯、その局面において、相手は何を考えているのか。

    そういったことを、もっと考え抜かないといけない。
    もっと思考して、それを身体で表現できるように。
    リーダーの思考を、15人のパフォーマンスにすっと落とし込めるように。
    こんなところで、つまらない試合をしていては勿体ない。
    何よりも、自分達がこれまでにグラウンドで費やしてきた時間がね。

    チームは緒戦から苦境に立ってしまったけれど、もう終わったゲーム。過去は取り戻せない。
    次のゲームから、チームを立て直すしかない。そして、そのためにすべきことは1つしかない。
    そう、練習を変えていくしかないんです。頭も身体も、常に全力を投じて。

    Thursday, September 22, 2011

    惜しまれる一戦。

    ラグビーW杯、予選プールA
    日本 18-31 トンガ

    ジャパンのことは心から応援しているけれど、正直、観ていて辛いゲームだった。
    ラグビーを愛する多くのファンが、同じような思いを抱いたのではないかと思う。

    出来ることならば、もっとジャパンの強みを生かした戦い方をしてほしかった。JSportsで現地リポートをされていた村上晃一さんの言葉にもあったように、この日のジャパンは「慎重さ」をやや欠いていた。不利なエリアで不用意なアタックをして、小さなミスから必要のない失点を重ねてしまう展開。素直な印象で言うならば、典型的な負けパターンに嵌まり込んでしまっていた。一方のトンガは、ジャパンが露呈した小さな隙を逃すことなく、エリアとポゼッションを確実に奪うと、SOモラスの正確なゴールキックから着実にスコアを重ねていった。そう、小さな隙。それは例えば大事な局面でのハンドリングエラーや自陣でのペナルティ、あるいは幾つかの局面におけるプレー選択のミスだったりするのだけれど、1つひとつの小さな隙が致命傷になってしまうのが、W杯の怖さなのかもしれない。

    勿論、トンガの勝因はそれだけではない。最大の要因は、言うまでもなくブレイクダウンだろう。80分間に渡っての執拗なプレッシャーは圧巻だった。 ポイントに対する寄りが全般的に遅れ気味だったジャパンは、トンガのパワフルなヒットとボールに絡みつく圧力に、終始苦しめられた。ジャパンとしては、ここまで劣勢に立たされるとは正直思っていなかったのではないかという気がする。あのブレイクダウンへの徹底的な拘りは、トンガを讃えるべきかなと思う。

    ジャパンの戦術であったり、ゲームマネジメントについては、W杯終了を待つことなく、色々な人が、色々なことを言うだろう。間違いなく批判の矛先が向かいそうなポイントも、現時点である程度まで想像できる。そしてそれは、勝負の世界では仕方のないことだとも思う。
    でも今は、残されたカナダ戦のために、全てを捧げて集中していってほしい。
    W杯という舞台のためにジャパンが捧げたこの4年間の全てを賭けて、最後にジャパンのベストバウトをしてもらいたいと、心から願っている。
    トンガ戦は惜しまれるゲームだったけれど、もはや過去でしかないのだから。

    ちなみに、トンガ戦で最も心に響いたのは、やはりマイケル・リーチの姿。
    本当に素晴らしかった。まさに獅子奮迅の活躍。彼はこのW杯における全ての瞬間で、魂を感じさせるプレーを続けているね。今のジャパンで、個人的には最も好きな選手です。
    そして堀江、畠山というフロントローの2人も素晴らしかった。リーチを含めて、この3人のプレーには特に惹かれるものがあった。興味深いのは、リーチや堀江が持ち込んだボールをターンオーバーされるケースは極めて少ないということ。例えばアリシ・トゥプアイレイや遠藤に代表されるようなフィジカルの強いタイプの選手と比較しても、ボールの活かし方は秀でていると思う。これは、ジャパンの活路を考える際のヒントになるのではないかと、個人的には思っている。トンガのようなタイトなプレーの得意なチームに対しても、身体を柔らかく使ってボディ・ポジションをコントロールしたり、ターンのようなヒットの芯をずらすようなプレーは有効に機能していて、狭いスペースを上手にドライブで抉じ開けたシーンというのは、局所的に見れば大半がこういった「柔らかさ」に起因していたと思う。「柔よく剛を制す」と言ってしまうと少々誤解を招くかもしれないけれど、ジャパン、ひいてはフィジカルでの劣勢に向き合っていかざるを得ない多くのラグビーチームにとって、目指すべき1つの形ではないだろうか。

    Sunday, September 04, 2011

    My Problem

    9/2-3と社内タスク@小田原に参加してきた。
    要するに、現在の会社の課題について若手メンバーで議論を重ねて、それを改善するための施策提言を経営層に対して行うというもので、4月以降、約半年間に渡ってチームでの活動を継続してきた。通常業務を抱える中で、タスクの活動はそれなりに重かったけれど、日頃はさほど意識することのない課題について、バックグラウンドの異なる様々な人達と議論するのは、個人的には結構楽しかった。
    この2日間は、各チームで纏められた施策の発表と、川本裕子さんによるゲストスピーチがメインだったのだけれど、自分自身にとっては本当に多くの気づきがあり、とても良い経験だったかなと思っている。また、様々な方との懇親の機会を得られたのも良かった。

    まず、初めて英語で15分間のプレゼンテーションをした。
    自身の英語力はまあ仕方ないとして、改めて強く思ったことがある。
    英語でのプレゼンにおいて、最も大切なのは英語じゃない。
    遥かに重要なのはコンテンツそのものであり、その表現(プレゼンテーション技術)だ。
    勿論、表現において英語の巧拙が決定的だったりもするのだけれど、その際に重要なのも、きっと正確な発音、正確な構文じゃない。それ以上に重要なのは、例えば意図された抑揚であり、ブレスであり、間だ。(決して発音や文法的な正確さが不要だというつもりもなくて、Priorityの問題だとは思うけれど。)
    これは素直な実感なのだけれど、とても勉強になった。

    コンテンツには、思いはあったんだ。少なくとも、自分にとってはね。
    でもきっと、あまり受けていなかったと思う。それも、1つの大きな気づきだった。
    今回のタスク活動を続けてきて、明確に自覚できたことがある。それは、今、自分の関心が「人間そのもの」に向かいつつある、ということ。例えば、モチベーション。誰かの心に火をつけるのは、本当に難しい。でも、ほんの小さなことがきっかけで、人のモチベーションは一瞬にして毀損したりする。自信や信頼なんかも同じだ。本物の自信、本物の信頼というのは、簡単じゃない。本物の自信を待っていたら、人はいつまで経っても1歩目を踏めない。挑戦はいつだって、自信そのものを追いかけるようなものだからね。

    みんな言うんです。挑戦しようぜ。信頼関係で仕事しようぜ、って。
    でもそれは、2日目のゲストスピーカーだった川本裕子さんの言葉を借りれば、「反論されない」ものなんだ。挑戦することの価値は、誰も否定しない。信頼関係はあった方が良いに決まっている。問題は、そのことを分かっていながら、誰もが臆することなく挑戦する訳でもなければ、お互いを信頼して仕事をできる訳でもない、ということだ。そして、挑戦を強制されると、往々にして「できること」だけをオープンにするのが人間の性だということだ。

    そう、人間の性。ここから逃げちゃいけない。
    そういうことを伝えたかったのだけれど、力量不足だったかな。
    でも勿論、今度は自分自身が逃げちゃいけないよね。
    社長の英語の質問をよく理解せずに完全にスルーしたという程度のミスは、自分の中で早々に帳消しにして、もっと考え抜いてみようと思います。

    これも、川本さんが講演の中で言っていた。
    課題というのは、課題と認識された時に初めて課題になるのだと。
    つまり、自分の課題認識から逃げてしまったら、それは課題でさえなくなってしまうんです。

    Tuesday, August 16, 2011

    SPIRIT -山中湖 #2-

    山中湖合宿も2日目を終了。
    IBMラグビー部の作田さん・西山さんが急遽参戦してくれたこともあって、非常に気づきの多い時間を過ごせたのではないかと思う。こうしてラグビーがつないでくれる人の縁に、心から感謝したい。

    今日の練習は、全体としてみれば昨日よりもクオリティの高いものになった。2人の猛者によるところも大きいけれど、やはり選手自身が「昨日のモードを越えていかないといけない」という意識を持って臨めたということだと思う。この点では、まずは一歩ずつでも前進かなと。その上で、この日の練習全体を振り返った時のキーワードとして、真っ先に頭に浮かぶのはSPIRITという言葉だ。つまり、魂だね。

    この日の午後はAvsBでのADだったのだけれど、体育会ラグビー部におけるAチームとBチームには厳然たる差があるはずだ。実際の実力云々の前に、Bチームは公式戦でジャージを着られない。チームの代表として公式戦を戦う権利を持つのがAチームであって、(決してBチーム以下の責任感とチームへの貢献を否定するものではないけれど)背負うものはどうしても違う。
    Aチームである、というのはそういうことで、その一線を絶対に譲らない、あるいはBチームにとっては半歩でもいいからその一線の先に喰い込んでみせるという気概が、チームを成長させる。
    そして、これこそがスピリットの生まれるポイントだ。
    今はまだ、ここが弱いんだ。
    スピリットがないというよりも、ごく一部の限られた人間のスピリットに、その他大勢のメンバーが依存している感じがする。自分自身の中から、内発的に生まれるスピリットが正直かなり甘いのだと思う。
    例えば、現時点で何人かのAメンバーが怪我人をしているのだけれど、繰り上がってAチームにいるメンバーに、危機感が感じられない。「やつが復帰する前に俺の評価を固めてみせる」という意志も見えないし、そういう行動もしていない。2倍練習しようという気もないならば、最初からAチームのジャージを着るなよと。
    Bチームには1年生も何人か加わっていたのだけれど、幾つかのシーンでは彼等のアタックに切られている。それでは通用しないよ、と身体で示してやるのがAチームの責務であり、またスピリットだろう。普通にパスをつながれて、「あの場面はどうだったか」とかはっきり言って関係ない。何でもいいからAチームの意地だけで止めてみせろよと。

    ここが今の課題だね。
    スピリットを他人に依存してはいけない。
    それは、端的に格好悪い。
    自らの意志で、闘う集団に変えていかないと。

    Monday, August 15, 2011

    山中湖 #1

    山中湖合宿、初日が終了。
    今日の総括をまとめておきたい。

    まず、チームとして今すべきこと。
    端的に言えばそれは、decipline(規律)という言葉が全てかなと感じている。
    例えば、セット。クラブチームとの合同練習でも、先にセットできていない。普段の練習で意識づけされていないのだから当然だ。こういうのは、日常を変えない限り変わらない。ラインを1本廻したら、ジョグバックしてセットしてから休む。フィットネスのメニューでも、1本終えたら苦しくてもジョグセット。こういう基本的なポイントを変えていかないと。「意識」というのはある意味ずるい言葉で、その先の行動を隠蔽してしまう側面もあって、そこに踏み込めないのは、結局のところ弱さなんです。
    セットだけじゃない。小さなことだと、練習の開始時間も緩い。決められた時間にきちんと始まっていない。合同練習の終了後をどのように過ごすのか、例えばその時間は休憩なのかチームトークなのか、といったことが厳密にコントロールされていない。コーチの立場でこちらが仕切っても良いのかもしれないけれど、基本的に正式コーチでも何でもない今の自分の立ち位置からすると、学生自身の主体的なマネジメントをやはり期待したい。

    具体的なプレーでいうと、FWは中間走とスタート。接点もまだまだ甘いけれど、接点を自ら予測して、そこに到達できないことにはスキルも生きてこない。今のFWのコンタクト・スキルは正直なところ決して高くないけれど、早いセットときちんとしたスタートダッシュができれば、今のレベルでももっと出来ることはあるはずだ。
    BKは、とにかく精度だね。イージーミスが多すぎる。要するに、ハーフスピードかつノープレッシャーでの練習では意味がないということだと思う。練習におけるプレッシャーを高めないといけない。これもセットと同じで、意識ひとつと言いながらも、意識だけでは変わらない。

    結局のところ、全ては練習の密度なんです。

    Monday, July 04, 2011

    Standard

    長谷部誠著『心を整える。』(幻冬舎)、読了。
    http://p.tl/ndeR

    サッカーW杯南アフリカ大会で日本代表のゲームキャプテンを務めた長谷部選手。
    そのサッカーへの熱意、プロフェッショナルとしての拘り、自身の持ち味を最大限に生かすための工夫、そして心のあり方。そういったものが、素直に綴られている。

    目次をざっと読むだけで、何度も首肯してしまう。
    アスリートとしてのレベルも拘り方も全く異なるけれど、自分自身がずっとラグビーを続けてきた中での感覚を思い浮かべながら読んでみて、「そうだよなぁ」と素直に心に沁み込んでくるメッセージが多かった。勿論、人間性はそれぞれなので、長谷部選手のスタイルが合う人もいれば、そうでない人もいるだろうけれど。

    ただ、アスリートとして「パフォーマンス」に対する意識が徹底していて、全くブレがないのは、それだけでも素晴らしいことだと思う。諸々全てを「自分に紐付けて」考えている点も、とても気持ちの良い姿勢だよね。

    書かれているポイントは、スポーツをする人間には非常に分かりやすい。
    でも、ここで思うんだよね。
    プロフェッショナルを目指すのは、ビジネスも同じだろう、って。
    ビジネスだけじゃない。1人の人間として、結果に責任を負う生き方を志すならば、結局のところ目指すものは同じなんじゃないか、って。

    譲れない一線を、どこに引くか。
    長谷部選手はそれを、「プロフェッショナル」という一点に定めたのだと思います。
    「心を整える」という表題は、彼にとってそれこそがプロフェッショナルであり続けるための必須条件だったからだと、俺はそう解釈しています。

    だから必要なのは、きっとノウハウじゃない。
    本当に必要なのは、自分自身の生き方に求めるスタンダードなんです。


    今、必要なこと。

    この週末で、東大ラグビー部/名古屋大ラグビー部共に、春シーズンを終了した。
    東大ラグビー部は、東北大との定期戦に敗れてしまい、やや残念な終わり方になってしまったみたい。ビデオできちんと確認してみないと。残された時間は少ないからね。

    名古屋大ラグビー部は、7/2(土)に南山大とのゲームがあった。
    下級生主体で臨んだ春シーズンの最終戦は、45-26で勝つことができました。
    特に失点の仕方がやや淡白だったのは残念だったけれど、収穫もあったかな。

    試合終了後、学生に話したんだ。
    「開幕当初に想像していた7月のレベルと、今日現在の自分達のレベルを比較するならば、どこまで到達しているのかな」って。

    「目標にしてきた継続プレーが出来るようになってきた部分はあります。
    でも、まだ足りない部分も多いと思ってます。」
    キャプテンは、率直にそう答えてくれた。

    悪くない。成長の実感も、課題意識も、素直に出てきたものだと思う。
    でもね、本当はもっと丁寧に考えたいポイントなんだ。
    「それで、今のペースをキープしていけば、『A2リーグ全勝/A1リーグ昇格』という年初に掲げたチーム目標には、揺るぎない自信を持って向かっていけますか」
    俺が聞きたいのはただ一点、これだけなんです。

    目標とのギャップや、今現在の自分達の立ち位置を、厳密に見据えること。
    それはとても知性的な営みで、そして東大/名古屋大の双方に、今最も必要なこと。
    ギャップを明確にしなければ、行動につなげることができない。
    そしてここが重要なのだけれど、ギャップ認識が多少ずれていたとしても、それはそれで構わない。自分達が考え抜いた末に導いた結論と心中できるならば、それは合理性よりもきっと強い。心中できるほどの信念は、簡単には折れないからね。

    ただ、コーチとしては今が勝負です。
    もちろんそれは、学生との勝負。
    俺には俺の信念があるので、ぶつけ合いをしないとね。
    学生の思考には、本気と覚悟を要求するつもり。こちらも考え抜くつもりなので。

    Sunday, June 19, 2011

    目を逸らさない

    昨日は名古屋大ラグビー部の定期戦だった。
    名阪戦と呼ばれる大阪大とのゲームは、春シーズンの最も重要なゲーム。昨年は敗戦しているので、今年は雪辱を果たしたかった。
    でも結果は、7-15。
    8点の差は、埋まらなかった。

    試合後に感想を聞かれた選手達は、不完全燃焼だとこぼした。自分達の実力や、練習してきたことを出し切れなかったと。周囲の人間も「勝てる相手だった」と話していた。自分達のラグビーをきちんとできれば、絶対に勝てたはずだって。

    でも、俺は思うんです。
    それができないのが、今のチームの課題だよって。
    自分達の実力というのは、「グラウンドで表現できるもの」のことで、試合で表現できないのは、厳しい言い方をすれば実力がないからだよ、って。

    みんな、どこかで逃げてしまうんだ。
    「本当はもっと実力があるのだけれど、うまく発揮できなかった」という総括は、8点分の実力差だったという現実から、ある意味で目を逸らしているんです。
    持っているものの全てを発揮するということは、思っているほど簡単じゃない。日々の練習で全てを出し切る姿勢、試合のためにベストの準備を怠らない生き方、そういうものがあって初めて出来ることなんだ。
    それをきちんとできるのが、本当の実力。
    できないのもまた、実力なんです。

    この日の選手達のプレーは、決して悪くなかった。ゲームの綾を失う残念なプレーも幾つかあったけれど、総じて気持ちの入ったパフォーマンスだった。

    それでも、届かなかった8点。
    ここから、逃げちゃダメなんです。
    この8点を埋めるために、明日からの日々に全力を尽くすことこそが、ラグビー部の醍醐味なのだから。


    Monday, June 06, 2011

    チーム

    6月4日(土)
    名古屋大 45-12 名古屋学院大(14:00K.O. @名古屋学院大グラウンド)

    名学大は昨シーズンにA1から陥落して、今シーズンは同じA2を戦うチーム。
    本来は1つの目標になる相手だけれど、失礼を承知で言うならば、この日の名学大はそういうチームではなかった。試合前のアップを見ていて、十分戦えると思った。ゲーム開始直後に、その思いは確信に変わった。その意味では、メンバー構成が若干不安定ながらもきちんと勝利したことは収穫。ただ、このゲームを象徴しているのは、むしろ失った12点の方だ。

    19-5で折り返したハーフタイムに、ちょっと厳しいコメントをしたんだ。
    「全然甘いゲームだ」って。
    前半40分間を通して危ないシーンも殆どなく、3つのトライを奪って戻ってきた選手の感覚はきっと違っただろう。でも俺としては、全く納得できないゲームだった。むしろ、選手自身に前半のパフォーマンスを「甘かった」と自己評価している様子がなかったことが、残念でならなかった。

    ハーフタイムに言ったのは、「自分達自身でゲームを壊している」ということ。
    開始早々にバックスが無責任なプレーをして、大外でボールをロストする。
    カウンターアタックでロングゲインした味方に対して、サポートが寄って来ない。
    自分達のミスから自陣に張り付いてしまうと、ディフェンスでは反則の連続。
    順目に走るのがチームの約束なのに、順目にスタートを切らないフォワード。
    スクラムを何度もターンオーバーできるような有利な状況で、この程度のスコアにしかならないのは、こうした当たり前のことが出来ていないからだった。

    「すべきことをきちんとしていない」というだけで、つまらないゲームになるんだ。チームの為になぜ必死にならないんだ。責任感のないプレーするなよ。試合前の円陣で「名学粉砕」と檄を飛ばしたのは何だったんだ。本当に粉砕する気あるのか。

    このくらいは言ったかな。
    この程度のプレーで、自分達の実力を過大評価も過小評価もしてほしくなかった。
    自分達のプレーが凄い訳じゃない。過大評価するようなものじゃない。
    でも、意識ひとつでもっと上のプレーができる。
    この程度で「結構できてきた」なんて過小評価もしてほしくない。
    「自分達が今、持っているもの」をきちんと認識して、その全てを出してプレーする。
    それこそが、大学ラグビーにとって最も大切なことだと思うんだ。

    「自分達」というのは自分だけじゃない。
    チームとして戦うことで、パフォーマンスが最大化されるような、そんなチームを名古屋大には目指してほしい。ただ15人が同じグラウンドにいる、というだけならば、チームでも何でもない。チームというのは、お互いの間に信頼関係があって、だからこそ1人ひとりのメンバーが自身の責任に集中できるような、仲間が最高のプレーをするために自分自身を犠牲にできるような、そういうものだと思うんだ。

    バックスの1次攻撃で、CTBがラインブレイクする。
    相手のディフェンス網が機能せず、そのまま独走になったとする。
    俺が見たいのは、それでもCTBに対してサポートしてくる人間なんだ。CTBが抜けた瞬間、FBと対峙した時に彼をサポートするためのスタートを切っている人間を見たい。彼が1人では状況を打開できずにクロスキックを転がした時のために、遠く離れたポイントから真っ直ぐ押し上げてくるロックの姿を見たいし、仮にトライライン直前で追いつかれてしまったとしても、そのボールを即座にダイブパスで逆目に戻せるハーフが見たいんだ。

    フォワードが、密集戦で必死のディフェンスからターンオーバーをしたとする。
    このボールを絶対に落とさないという覚悟で展開してほしいんだ。ジャッカルしてくれたフランカーがポイントから頭を上げた時のために、絶対にやつのいる場所よりも前にボールを運ぶのだという必死さを持ってほしい。そのボールをもし落としてしまったならば、絶対にセービングしてほしいし、翌日以降の練習では、他の選手よりも30分早く来てキャッチングの練習をしてほしい。

    信頼関係の芽というのは、そういう小さなことの中にある。
    とても小さなこと、でも絶対に譲ってはいけないことに、正面切って拘っていくことで、信頼関係は培われていく。ただ同じグラウンドにいるだけで、自然と生まれるような簡単なものじゃない。
    そしてこれこそが、「チーム」となるための必須条件だ。

    名古屋大ラグビー部は、厳しい見方をすれば、まだチームになりきっていないんだ。
    みんな真面目で一生懸命なのはよく知っているのだけれど、信頼関係に基づいた「チーム」を作っていくためには、それだけでは足りないんだ。
    信頼って、もっと厳しいものだから。

    でも、この日のゲームはきっと、1つの気づきを与えてくれたと思う。
    6月の1ヶ月間が、とても大切です。
    夏合宿までに、もう1つ上のレベルの厳しさに向き合ってもらいたいです。

    Friday, June 03, 2011

    綺麗に考えない

    最近、組織というものについてよく考える。
    直接のきっかけは社内のあるタスクなのだけれど、冷静に考えると「全社」といったスケールでなくても、例えば「部門」や「チーム」も組織であることに変わりはないのだから、思考の題材に事欠くことはないし、意外と身近に貴重なヒントがあるのではないかと思っている。

    よい組織とは、つまり何だろう。
    一昨日、会社のあるべき姿をどう考えるのかということについて、自身が所属するチームを含めて、10のチームが発表を行ったのだけれど、ほぼ全てのチームの発想が非常に類似していた。大きく纏めてしまえば、「高い能力を備えた個々人が有機的に繋がり、顧客志向で目標を共有して活動する組織」といった感じかなと思う。こう整理してしまうと、誰ひとりとして反論しないだろう。「それが実現できれば素晴らしい」ということには、正面切って疑問を差し挟む余地がないからだ。

    ただ、ここで少し立ち止まりたくなる。
    あまりに普遍的な整理の中に、何かが隠蔽されているような感じがするんだ。
    例えば、顧客とは誰なのか。
    自社にとって利益をもたらさないユーザーは顧客なのか。現時点で利益を享受できていないのは、自社の活動に問題があるからなのか。本来リーチすべきではなかった、という可能性はないのか。業界・業態・企業規模が異なる多様な顧客を、「顧客」の一言で括ってしまってもよいのか。そして、その一括りの考察は有意なのか。
    (ちなみに、「顧客」という言葉には「国民」と似た違和感を感じる時がある。つまり、本当のところそれが誰なのかはよく分からない、ということなのだけれど。)
    あるいは、組織の目標とは何なのか。
    企業であれば、一般的には「付加価値の創出」ということになるのかなと思う。更には、その価値創出プロセスが将来にわたって発展的に継承される、という点を加えれば教科書的な解答としては十分だろう。
    でもそれは、つまり何なのか。単純に、絶対値としての粗利益なのだろうか。そうだとすれば、例えばメセナ活動などはどのように位置づければよいのだろうか。また、施策はどこまで目標と整合している必要があるのだろうか。桶屋を儲けさせるために風を起こすような活動は、合目的的だと言えるのだろうか。逆に、合目的的な施策が全てなのだろうか。

    なかなか思うように、自分の考えを整理できない。
    とにかく、拭い難い違和感が残るんだ。あまりに綺麗に整理してしまうことに。

    「顧客」なんていない。存在するのは常に「ある顧客」だ。
    「社員」なんていない。存在するのは常に「ある社員」だ。
    組織というのは結局のところ、そういった「ある個人」の総体なのだという基本的なスタンスが、思考を整理する過程の中で失われているような気がして、その先へと素直に向かうことができないんだ。顧客への視点も同様で、顧客ニーズや顧客にとっての価値というのも、「ある顧客」にとってのニーズであり価値であるということが、本質的に重要だと思う。属性の近い顧客が類似したニーズを抱えていたり、求める価値を共有していることはあっても、「私を」(あるいは「当社を」)見てくれている、ということがいつの世も価値の本質だったりする訳で、特殊性を排除して、一般論のみで顧客を考えていても、その先の道筋を見出せるような気がしない。

    組織を考える時に、ある特性を持った個、あるいは小集団にまで降りていくことは、どうしても必要だと思う。それが基本的なスタンスとしてあった上で、本当に踏み込んで考えるべきポイントは、その先にあるような気がするんだ。

    「特殊」へのアプローチを、組織全体のマクロ的な目標といかに整合させるか。
    組織全体へのフィードバックを見据えた「特殊」へのアプローチは、どうあるべきか。

    自分の中の違和感を紐解いていくきっかけは、この辺りにあるのかもしれない。
    長々と書いてみて、結局うまく纏まらないのだけれど、今はそんなことを漠然と考えています。